kokutai「日本への回帰」「揺るぎなき国体」
【日本への回帰】 孝明天皇の攘夷のご精神(3) 展転社代表取締役 荒岩宏奨
嘉永6年(1853)6月3日、アメリカの東インド艦隊が浦和に来航した。司令官はペリーである。実は、嘉永3年ごろからオランダからの情報でアメリカが日本に通商条約締結を迫る動きが幕府に伝へられてゐた。そして、実際にペリーが来航する前年にあたる嘉永5年(1852)6月10日には、オランダ商館長ドンケル・クルチウスが「別段風説書」といふ報告書を幕府の長崎奉行に提出。そこにはアメリカの艦隊が日本に来航し、開国を迫る旨が記されてゐたといふ。このころ、幕府はオランダ商館に対し、海外情報の報告書である風説書の提出を義務づけてゐたのである。
幕府はペリー来航と開国要求に関して事前に情報を得たのだが、朝廷へは伝達してゐない。しかし、水戸の前藩主である徳川斉昭から関白の鷹司政通にこの情報が密報書で伝へられてゐる。よって、鷹司政通から朝廷の重要人物には伝へられてゐた可能性はある。
ちなみに、この密報書には差出人も宛名も年月日も記されてゐないのだが、現在では斉昭の自筆書状と断定され、ペリー来日の情報とともに、それに対応しようとしない幕府の内情が記されてゐるらしい。
6月9日、ペリーは久里浜に上陸し、フィルモア大統領からの親書(米国国書)を幕府に手交した。そして12日に、ペリーは来年の春に来日することを約束し、浦賀を去ったのである。15日、幕府はペリー来航を朝廷に報告した。すると朝廷は、再び7社7寺に祈禱を命じてゐる。
そして22日、将軍である徳川家慶が死去した。
7月1日、幕府は諸大名に対して米国国書を示し、どう返事をするかの意見を求めた。
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