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やはり「明治の日」は必要だ ―歴史を取り戻し、未来を切り拓くために 里見日本文化学研究所所長 亜細亜大学非常勤講師   金子 宗德

 一定の役割を果たしてゐる「文化の日」

 占領下の昭和二十三年(一九四八)七月二十日、「国民の祝日に関する法律(祝日法)が制定された。これにより、明治天皇の御生誕日であり、昭和二年(一九一三)年三月三日からは「永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶スル」ための「明治節」とされてゐた十一月三日は、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ための「文化の日」と改められた。

 この日が「文化の日」と命名されたのは、昭和二十

二年十一月三日に日本国憲法が制定されたことに由来する。参議院文化委員長として祝日法制定を主導した山本勇造――『真実一路』や『路傍の石』で知られる作家・山本有三――は、参議院本会議における委員長報告の中で「この新憲法において、世界の如何なる國も、未だ曾て言はれなかつたところの戦争放棄といふ重大な宣言をいたしてをります。これは日本国民にとつて忘れ難い日でありますと共に、国際的にも文化的意義を持つ重要な日でございます。そこで平和を図り、文化を進める意味で、この日を文化の日と名づけた」と述べてゐる。

 それから七十五年、当日に宮中で文化勲章の親授式が行はれるのを始め、この日を挟む形で文化庁主催の芸術祭――独立行政法人日本芸術文化振興会が運営する諸施設で、オペラ・バレー・オーケストラ・歌舞伎・演芸(落語など)・能楽・日本舞踊・文楽・民俗芸能の各種演目が上演される――が行はれたり、奈良国立博物館では正倉院展が開催されたりする。また、この日に合はせて、各地の美術館や博物館が入館料を無料にしたり、各自治体における文化行事や教育機関における学園祭なども行はれたりするなど、「文化の日」は国や地方公共団体などが取組む文化振興事業の象徴的存在として、一定の役割を果たしてゐると云つててよいだらう。

 制定時における国会の議論

 祝日法の第一条には、「国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける」(原文ママ)とあるけれども、当時の国民は「文化の日」を全面的に歓迎してゐたわけではなかつた。衆参両院の文化委員会が総理庁(現・総理府)官房審議室と協力して行つた祝祭日に関する世論調査によれば、四〇・二%が「明治時代を記念する日」を祝日とすべきとしてゐる。因みに「文化の日」と同趣旨の「新憲法公布の日」の支持率は四〇・三%で、ほぼ同じであつた。

 参議院文化委員会における審議においても、石田幹之助(東洋史学者)や長谷部言人(人類学者)は「明治節」の存置を主張し、藤岡由夫(物理学者)は「憲法記念に関しましては、明治節の日を、とにかく先程復興といふ御意見もあり、明治の維新といふ日の意味もあり、丁度又その日を期して憲法を公布されたといふ意味もありまして、やはり兩方の意味を兼ねて、十一月にお採り下さつたら如何か」と発言してゐる。「明治節」が国民の請願を受けて制定されたといふ経緯からすれば、当然のことだらう。

 同委員会では、紀元節の取り扱ひと共に新憲法を記念する日を公布日(十一月三日)とするか施行日(五月三日)とするかが大きな問題となつてゐた。

 審議においては、「祝日が、一年のうちで片寄らないよう分布させること」、「祝日の数はあまり多くしないこと」などが考慮に入れられてゐたが、当時の天皇誕生日は四月二十九日であり、その近くに祝日が集中することの是非が一つの争点となつた。

 当時の議事録を見ると、労働者の国際的記念日である「メーデー(五月一日)」を祝日として組み込まうとする左派が、日程的片寄りといふ批判を避けようとしてか、公布日を「憲法記念日」にすべきと主張する一方、それに否定的な者は施行日こそ「憲法記念日」に相応しいとの論を展開してゐる――そもそも、施行日が五月三日とされたのも、メーデーと重なることを避けたためと伝へられる。

 最終的には、農耕生活に由来する「新嘗祭」が「勤労感謝の日」と改められて労働者の記念日を兼ねることとなり、「メーデー」は祝日とならなかつた一方、施行日が「憲法記念日」、公布日が「文化の日」とされることで、新憲法制定を記念する祝日が二つ生まれることとなつた。

 先に触れたアンケート結果を見る限り、「明治時代を記念する日」を祝日とすることに国民的理解は得られたであらうし――現に、明治節の存置を求める請願が衆参両院に提出されてゐた――、昭和天皇が昭和二十一年(一九四六)元旦に下された「新日本建設の詔書」の冒頭で明治天皇による五箇条の御誓文を引用されてゐることからして、新憲法とも矛盾しないと思はれるが、同じく国民の要望に反して廃止された「紀元節」と共に、GHQの意向を国会が過度に忖度した結果であらう。

 「明治節」を巡る現状

 かくして「明治節」は実定法の文言から消えた。加へて、日本国憲法と同日に施行された新しい皇室典範には元号の規定がなく、社会的慣習として行政文書でも用ゐられてゐた元号を廃止すべきといふ論すら横行する。このやうな状況において、「明治」といふ元号を冠する祝日を復活させることは困難であつた。

 けれども、当時の国民は、この日が「もともと明治天皇の御生誕日に由来する『明治節』である」ことを知つてゐたし、明治神宮を始めとする全国の神社においては、明治天皇の聖徳・大業を景仰し、皇室の弥栄と国家の隆昌および国民の繁栄を祈る明治祭が斎行されてゐた。

 同様に、祝日法の制定により廃止された「紀元節」は、神社界を始めとする国民有志の粘り強い復活運動が実を結び、昭和四十一年(一九六六)十二月九日に「建国をしのび、国を愛する心を養う」ことを趣旨とする「建国記念の日」として復活する――その経緯については、本誌本年二月号に詳説した。

 昭和五十四年(一九七九)六月十二日には元号法が成立し、元号が法的根拠を取り戻す。さらに、昭和天皇の崩御に伴つて「みどりの日」とされた四月二十九日が、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」(原文ママ)ことを趣旨とする「昭和の日」が制定される。この結果、「明治節」を復活することに関する法的制約はなくなる。

 とは云へ、「明治節」が廃止されてから既に七十五年が経過したこともあり、何故この日が「明治節」であつたかといふことから説明せねばならなくなつた。

 先に述べた通り、多くの神社では明治祭が斎行されてゐるものゝ、これは神社内における祭事であつて、秋祭りのやうに地域住民が関与するものではない。そのため、地域住民の大半は、この日に祭事が行はれてゐることを知らない。

 祝日の意義を踏まへた建設的な議論を

 その上、祝日を巡る国民の意識も大きく変容した。経済成長を背景として国民のイデオロギー離れが進んだ結果、祝日を巡る政治的攻防は沈静化する。紀元節が復活する過程では国論が二分され、国会における暴力沙汰も起こつたけれども、「昭和の日」制定の過程では、そこまでの対立は生じなかつた。

 国民の多くにとつて、四月二十九日はゴールデンウィークの初日といふ位置づけでしかなく、「みどりの日」でなければならぬ絶対的理由はない。である以上、昭和時代に対する思ひ入れから「昭和の日」へと改めたいと強く願ふ人が少なくないのなら、敢へて反対するまでもない、といふことであらう。

 「文化の日」については如何か。

 イデオロギー離れが進む現状において、日本国憲法の公布日といふ点に拘る者は多くないだらう。そもそも、日本国憲法に関する祝日が二つ存在する合理的理由は存在しない。しかしながら、先に述べた通り、この日が文化振興において一定の役割を果たしてゐることは否定できない。

 たゞ、後者の側面に着目した場合、十一月三日でなければならぬといふ積極的理由は存在しない。現在、十一月一日は、国が制定した記念日「古典の日」とされてゐる。これは、寛弘五年(一〇〇八)十一月一日付の『紫式部日記』に『源氏物語』を想起させる記述があることを典拠としてをり、こちらの方が「文化の日」に相応しいとも云へ、「文化の日」を十一月一日に移し、三日を「明治の日」に改称すれば、祝日法の規定によつて二日も休日となり、三連休となるので歓迎する者は多いだらうが、他国に比して多い祝日を増やすことは困難だらう。

 また、明治改元の日である十月二十三日を「明治の日」にしては如何かといふ意見もある。この日に合はせて政府主催の明治百年記念式典が昭和四十三年(一九六八)に行はれてをり、「明治時代を記念する日」としての資格を有してゐるものゝ、歴史的経緯といふ観点からは、明治天皇の御生誕日に由来する「明治節」とされてゐた十一月三日のほうが相応しいことは云ふまでもない。

 平成二十三年(二〇一一)十月一日に《明治の日推進協議会》が設立されてから十二年あまり、昨年には超党派の議員連盟が結成されるなど「明治の日」法制化への動きは着々と進んでゐる。さうした中で、「自由と平和を愛し、文化を進める」ことを目的とする「文化の日」と「近代国家を形成した明治時代を顧み、未来を切り拓く」ことを目的とする「明治の日」とが共存できるやう、祝日の意義を踏まへた建設的な議論がなされることを期待したい。