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【教科書で教えたい近現代史-改訂版その4】 南京攻防戦はあったが、大虐殺はなかった‼ 鳥居徹夫 ( 元文部科学大臣秘書官 )  

旧聞になるが、平成26年(2014)年12月13日、中国の習近平国家主席は、支那事変で「日本軍により南京市で30万人が虐殺された」と、従来からの主張を繰り返した。またユネスコに働きかけ、平成28(2016)年に、日本の見解も聞かないまま、一方的に世界の記憶に登録された。

中国側が主張する犠牲者数30万人というのは虚偽である。また戦闘はあっても虐殺事件はなかった。中国国民党政府(蒋介石政府)から国際連盟に対して、ただの一回も「提訴」されていないと言う事実がある。

蒋介石は、「南京大虐殺」の「な」の字も主張していない。また共産軍の毛沢東も同様であった。

しかも南京攻略戦当時、現地に入った百人以上の従軍カメラマン・記者・文化人等の誰一人として、「大虐殺」について報告していない。

もし「大虐殺」が実際に行われたのであれば、スクープ合戦をするのが普通であるが、実際には何一つ報道していない。つまり「南京大虐殺」はなかったのである。

 

今年8月24日に始まった東海第一原発のAlps処理水の海洋放出について、習近平政権は核汚染水と罵倒し、日本非難を繰り返し、日本からの水産物の輸入停止などの報復で、日本に政治的・外交的・経済的に圧力を加えている。

ちなみに「ALPS処理水」とは、福島第一原子力発電所で発生した汚染水を多核種除去設備(ALPS)で、環境放出の際の規制基準を満たすまで繰り返し浄化処理した水です。

ただALPS処理水にも含まれるトリチウム(三重水素)は、自然界にも幅広く存在し、福島第一の処理後は年間22兆ベクレルです。ちなみに中国から海洋への放出水は、泰山(チンシャン)原発で年間143兆ベクレル、陽光(ヤンジャン)原発で年間112兆ベクレル、福島原発の5~8倍である。(液体、2020年)

しかも福島県や東北各県の飲食業や東京都庁などに、中華大陸からの迷惑電話をかけまくり、威力業務妨害を展開している。

さらに2011年、事故を起こした原発の低濃度の海水を浄化した水を、記者会見の時に飲ませられた内閣府の園田康博政務官(当時)が、ガンで死亡したというフェイクニュースが流されていた。しかし園田氏は健康だという。原発事故当時の日本は、民主党政権であった。

都合の悪いSNSなどの報道規制をとる中国の共産党政府は、これら日本への自国民の野蛮行為を野放しにしている。

 

🔶 やはりバイデン、ヤバイデ~ン

かつてアメリカ大統領であったオバマは、共産中国の野望・覇権主義を見ても振りであった。

中国共産党政府が一体一路を唱え、南シナ海への岩礁埋め立て拠点化するなどの、その膨張路線や覇権拡大に見て見ぬふりであり、中国共産党の暴走し放題であった。

 さらに共産中国は、尖閣諸島を自国領と主張し領海侵犯を日常化している。さらに沖縄独立など反本土運動に共感をしめすとか、中国資本による日本国土の買いあさりなど、いわゆる「日本への静かなる侵略」は着々と進んでいる。

中国共産党の習近平は、オバマ時代を彷彿させるように日本への誹謗中傷のオンパレードであったが2016年にアメリカ大統領選挙でトランプ大統領が選出されて以降、日本への非難がトーンダウンした。

いまのアメリカの大統領は、オバマ時代に副大統領であったバイデンであり、日本の総理大臣は安倍晋三のあとを受け継いだ岸田文雄である。やはりバイデン、ヤバイデ~ンである。

中国は、日本攻撃が効果的と判断すれば、また南京事件などのウソの宣伝を国際戦略として派手に展開するのではないか。

 

🔶 30万人虐殺は虚偽、中国共産党が仕掛けた宣伝戦

 「いわゆる戦後70年」にあたる平成27(2015)年は、日本の武装解除、第2次世界大戦終了後の70年にあたり、中国や韓国などによる反日宣伝活動、外交攻勢が活発化した。

 その前年の平成26年(2014)年12月13日、中国の習近平国家主席は、支那事変で「日本軍により南京市で30万人が虐殺された」と、従来からの主張を繰り返した。

 またユネスコに働きかけ、平成28(2016)年に、日本の見解も聞かないまま、一方的に世界記憶遺産へ登録された。

中国側が主張する犠牲者数30万人というのは虚偽である。また戦闘はあっても虐殺事件はなかった。

昭和12(1937年)当時の南京の人口は20万人、しかも南京陥落の直後2週間後に迎えた正月には人口が25万人に増えている。 

人口が増えていたと言うことは、安全な市民生活ができていることの証左であり、虐殺というものがなかったことは明白である。

30万人虐殺などというのは虚偽であり、まさに中国共産党が仕掛けた宣伝戦であった。

 

🔶 盧溝橋事件は、支那共産党による「謀略」だった 

いわゆる支那事変がおきたのが昭和12(1937)年である。

昭和12(1937)年7月7日、北京郊外において日中間で軍事衝突(盧溝橋事件)が起きた。日本軍は、支那との全面戦争を最初から欲してはいなかった。現地解決・事件不拡大方針で、現地では5日目に日本・支那両軍は停戦協定を結んだのである。

この盧溝橋事件は、北京地域のゲリラ指導者である劉少奇が、演習中の日本軍と国民党軍に発砲し、戦火の拡大を狙ったものであった。

日本軍が最初に銃撃を受けた際、つまり演習をしていた際の日本軍は「丸腰」だった(演習のため実弾を携行していなかった)。

当時の状況について、橋本群陸軍中将(駐屯軍参謀長)は「実弾を持たずに発砲され、非常に危険な状況に置かれた」と証言していた。

「丸腰」で演習していた日本軍が「暗闇からの銃撃を受けた」と称して、自ら「武装」している国民党軍と事を構えたということではない。

では盧溝橋で先に銃撃したのは、国民党軍だったのかというと、そうではなかった。実は当の国民党軍も、銃撃を受けていた。

つまり、盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は、国民党軍によるものと思い込んだ。ところが国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んでいた。(ちなみに日本軍が応戦したのは翌8日未明)

「盧溝橋事件」発生の翌日、つまり日本軍が反撃を開始した7月8日に、中国共産党は本拠地の延安で「対日全面抗戦」を呼びかけた。

中国共産党の手際の良さは、まるで、「盧溝橋事件」が起きることを知っていたかのようであった。

実は「盧溝橋事件」は、中国共産党による「謀略」だった。

工作員が夜陰に乗じて、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍が交戦するように仕向けたのであった。

共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきりと記述されていた。

極東軍事裁判(東京裁判)の公判中に、劉少奇は「私の部下がやった」と新聞記者らに発表した。それにより当時の日本の責任者が、被告からはずされた。

また「中華人民共和国」成立の昭和24(1949)年10月1日、周恩来首相も、「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言。

中国共産党自らが「自白」していた。

つまり「盧溝橋事件」とは、日本が支那に「仕掛けられた戦争」であった。

 

🔶 通州事件から上海事変へ、挑発されワナにはまった日本

盧溝橋事件発生から3週間後の7月29日、北京東方の通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件が発生した。

通州の防共自治政府保安隊(中国人部隊、国民党政府から離脱していた)が、日本守備隊と日本人居留民を襲撃したのである。

この保安隊(中国人部隊)は、所要以上の人員を有し、また銃と剣とともに機関銃や野砲も持ち、保安隊と称し得る以上の戦闘能力があった。

この通州事件では、日本軍守備隊140名と日本人居留民380名が突如として襲撃を受けた。

彼らは、婦女子を強姦し、乳児・幼児を問わずリンチの末に、日本の居留民223名が惨殺された。余りにも残虐であり日本国民の怒りを買った。

当時の新聞にも「惨たる通州反乱の真相、鬼畜も及ばぬ残虐」(東京日々新聞)と報道されている。

日本軍は、日本政府の事態の不拡大政策に基づいて事態の沈静化に努めたが、さらに情勢が緊迫。8月12日には蒋介石の中国正規軍約3万人が上海まで前進し、国際共同租界地の日本人区域を包囲した。

8月13日、共産党の工作員が紛れ込んだ中国正規軍は、機関銃による射撃を突然開始し、日本人居住地を襲撃した。対する日本軍は4千人。

さらに8月14日には、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦を爆撃した。

日本の陸戦隊は応戦したが、不拡大方針に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が租界地に拡大しないよう、防衛的戦術に限定した。

中国軍の激しい攻撃が続いたが、日本特別陸戦隊は10倍ほどの中国軍精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界地の日本側の拠点を死守した。

このような状況を受け、日本政府は不拡大政策を転換。5日未明に「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、8月23日に上海派遣軍2個師団が上海北部に上陸し、租界地の日本側の拠点を死守した。

しかし、中国軍の優勢な火力とドイツ軍事顧問団によるトーチカ構築と防戦によって大苦戦し、橋頭保を築くのが精一杯であった。

ようやく10月26日に上海は、ほぼ日本軍の制圧下になった。

そして11月9日に中国軍は一斉に退却し始めた。

日本側は3ヶ月で戦死者が約1万名、戦傷者が約3万名、合わせて約4万名の死傷者を出した。凄残な消耗戦であった。

日本特別陸戦隊の驚異的な奮闘で、中国軍による「(日本人に対する)上海大虐殺が阻止できた」のである。

蒋介石は後日、「緒戦の1週目で、上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだと伝えられる。

(注)租界地とは

租界地とは、支那の開港都市(オープン・シティ)で、外国人がその居留地区の行政・警察権を管理する組織及びその地域を言う。

日本租界地(日本管理地区)では、支那政府承認のもとで居留する在留邦人保護や日本企業の警護を目的として、必要最低限の軍隊を駐留させていた。中国大陸では明治3(1900)年に、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼす)」を掲げた義和団の乱に乗じ、西太后は清国軍を派遣して北京の公使館や天津の租界地を攻撃した。 

日本軍を主力とする連合軍は北京に進軍、明治24(1901)年8月14日に北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵を駆逐し、公使館区域の外交官や居留民を救出することに成功し、9月に北京議定書が結ばれた。この北京議定書により、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、日本の5カ国は、治安が悪く無秩序状態の支那に駐屯軍を置き、中国在留の外国人の保護にあたることとなった。

 

🔶 日本軍の南京進撃、城市陥落は一週間で決着

上海事変で日本軍は、大きな被害を受けながらも、10倍近い敵軍を壊走させた。すかさず上海派遣軍は追撃に入った。

しかし国民党軍の拠点である南京を陥落させないと、上海は守れない。上海派遣軍を含む中支那方面軍(松井石根(いわね)大将)は、首都南京(当時)をめざした。

そもそも南京城は、近代戦に耐えられる城壁ではなかったが、蒋介石が首都南京での防衛戦にこだわった。

それは南京が中国の首都であったからであり、そこが容易に陥落すると、内外で蒋介石の権威が失墜するからである。

南京城市を取り巻く外周陣地の戦闘は大激戦の連続であったが、中支那方面軍の猛攻により中国国民党軍の拠点が次々に陥落した。国民党軍の防衛線は崩壊し、南京城市に迫った。そして、南京城内の制覇は、事実上一週間で決着した。

12月9日に投降勧告文を投下、10日に総攻撃を開始、12日の夜間に中国軍が撤退、13日に日本軍は3つの城壁を占領、15日には城内制圧が終わった。

そして17日には松井石根大将を先頭とする中支那方面軍の入場式のセレモニーが行われた。

日本軍の損傷は、むしろ外周陣地を陥落するための戦闘で生じていたものであった。

南京戦での日本軍の死傷者は、戦死者が約1,500名、戦傷者が約4,600名、合わせても約6,100名で、上海事変の7分の1程度であった。

このように見ると、昭和12(1937)年は、7月の盧溝橋事件、通州事件、8月の上海事変に続き、12月の南京陥落である。

つまり南京攻防戦のみが単独で突出したものではなかった。

ちなみに南京城市の城内は狭く39平方キロ。山手線内の6割。世田谷区の面積の7割である。

 

🔶 中国国民党の掠奪と破壊を、日本の仕業にした歴史捏造

中国国民党軍は退却する際には焦土作戦を用い、掠奪と破壊を行った。そしてその掠奪と破壊を日本の仕業にした。これは歴史捏造なのである。中国軍が退却する前には掠奪を行うことが常となっていた。

上海の英字紙には、「中国軍が撤退にあたり放火したことは、軍事上のこととは認めながら残念なことである」としている。

むしろ中国軍の撤退により、「上海に居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなった」として、「日本軍に感謝すべき」との論評がなされた。

「南京大虐殺」が起きたとされる当時、国民党政府(蒋介石政府)から国際連盟に対して、ただの一回も「提訴」されていないと言う事実がある。

もし、本当に「大虐殺」があったのであれば、日本軍の攻勢で苦境に立たされ、首都を南京から内陸部の重慶に移動せざるを得なかった蒋介石にとって、国際社会に日本への「圧力」を強化させる絶好の「材料」(カード)になったハズ。

ところが蒋介石は、「南京大虐殺」の「な」の字も主張していない。また共産軍の毛沢東も同様であった。

しかも南京攻略戦当時、現地に入った百人以上の従軍カメラマン・記者・文化人等の誰一人として、「大虐殺」について報告していないと言う事実がある。

もし「大虐殺」が実際に行われたのであれば、スクープ合戦をするのが普通であるが、実際には何一つ報道していない。

つまり「南京大虐殺」はなかったのである。

この「南京大虐殺」は、南京攻防戦から10年近くも経過した東京裁判で、日本断罪のためのデッチアゲという儀式がとられたのである。

南京制圧の後には徐州会戦、そして昭和13 (1938)年8月に敵基地にあたる武漢攻略で、戦闘は事実上終わった。

そこから終戦までの7年間、主だった戦闘がなかった。

昭和15(1940)年に南京に汪兆銘政権が誕生し、治安も良くインフラも整備され、中国人にとっても安心して生活できる場所となった。

中国大陸で、治安の良いところが満州、汪兆銘政権、各国の租界地であり、治安の悪いところが延安、重慶であり、天国と地獄の差があった。

日本は、これまで持っていた中国内の権益を汪兆銘政権に返した。ヨーロッパ各国も日本に習い権益を中国に返したのである。

日本がなければ、外国の権益は戦後も、中国大陸に残ったままだった。

河村たかし氏(名古屋市長)の父親は、伍長で南京周辺にいた。「南京虐殺などはなかった。日本に帰る将兵に、南京市民が日用品などを持ってきて別れを惜しんだ」と父親から聞かされた。

蒋介石は、昭和20(1945)年の終戦直後に「日本に賠償請求はしない」「中国にいる日本人を早期に返す」と表明した。もし本当に南京虐殺があったならば、蒋介石は当時から、日本に賠償を求めていたであろうし、中国にいる日本の軍人や婦女子を早期に帰国させることはなかったのではないだろうか。