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「皇居の歴史 その4」 村田春樹(今さら聞けない皇室研究会顧問)
明治二十二年二月十一日、落成したばかりの明治宮殿にて大日本帝国憲法の発布式が厳かに執り行われた。名実ともに大日本帝國が誕生したのだ。この紀元節は言うまでもなく神武肇国の日であるが、のみならず、帝國の建国記念日でもあったのだ。前年十月に皇城は宮城と改められ、この名称は戦後皇居と変えられるまで続く。この日の一年半後明治二十三年十月には教育勅語が発布。大日本帝国は着々と建設されていったのである。
さてほぼ同時に宮中三殿も新築整備された。三殿とは賢所(天照大神と八咫鏡を祀る)皇霊殿(歴代天皇皇族を祀る)、神殿(八百万の神を祀る)を称する。これらは修復を経て現在も健在で宮中祭祀・皇室の冠婚葬祭で参拝されている。
さて明治大正昭和と明治宮殿ではさまざまなドラマが展開された。しかし紙数の関係で割愛する。ほぼ同時に落成した宮内省の建物であるが、五十年もたたない昭和十年に建替えられて今日に至っている。この建物はかろうじて戦火を免れ、前後しばらくの間、宮殿と御所の役割を果たしていた。昭和二十三年一月に始まる新年の一般参賀もこの玄関ベランダで行われた。さて宮城の最後について語ろう。時に昭和二十年五月二十五日午後十時二十三分空襲警報発令。B二九二百機による大空襲があった。両陛下は直ちに御文庫に動座。他聞を憚り防空壕を御文庫と呼んだのである。三月十日の東京大空襲は下町が焼け野原になったが、今回は首都機能中枢部を狙いとどめを刺すものだった。参謀本部・陸軍省(現在の憲政記念館)は紅蓮の炎に包まれた。日付が二十六日になり一旦鎮火したかに見えたが、参謀本部を飛び出した火の玉が折からの風速十五メートルの風に乗り、正殿の窓に飛び込んだのだ。皇宮警察守衛隊・近衛兵特別消防隊・警視庁特別消防隊計四十台の消防車懸命の消火活動がなされた。
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