tajikarao「タジカラオの独り言」

男の生き方~モンタナ・ジョーの生涯を描く~ 野伏翔(映画監督)

 9月の舞台劇「祖国への挽歌」の稽古が始まり。戦後マフィアのドンにのし上がった日系人マフィア、モンタナ・ジョーの生涯を描くこの物語に没頭している。なぜこの話にこれほど引き込まれるのか?と自問してみるとその理由は、今どきお目にかかることの出来ない男の生き様、男の気概が、LGBT、ポリコレ全盛のこの現代に、実に新鮮なものとして胸を打つからに他ならない。

 モンタナ・ジョーとはモンタナ州の博打大会で名を挙げたジョーへの尊称のようなものだが本名は江藤健と言う。1919年(大正8年)にカリフォルニア州ストックトンで日系二世として生まれた。父親の江藤衛は何とキリスト教の宣教師であった。当時アメリカ社会では日系人排斥の「排日移民法」が制定され、日系人の子供たちは白人の子供たちから「ジャップ!」と蔑まれ「ゴーホーム!」と罵られた。健はその白人たちと小さな体を張って戦った。だが宣教師として徹底的に非暴力を解く父と対立した(と私は想像した)。江藤健=後のモンタナ・ジョーは16歳で家を捨てる。ブランケットボーイと呼ばれる季節労働者になった健=ジョーは次第に博打の腕を挙げる。が1941年真珠湾攻撃により日系人はみな強制収容所に収容されてしまう。収容所を出るために軍隊を志願したジョーは、日系人部隊442連隊に所属。イタリア戦線でナチスを相手に奮戦する。この442連隊はアメリカ陸軍史上最高の数の勲章を得た精強部隊であった。この時、片腕を失いながらも一緒に戦った仲間にダニエル井上がいた。彼は戦後ハワイ知事から上院議員として活躍し、現在はハワイのホノルル空港の名前がダニエルイノウエ空港となっている。一方ジョーは、マフィアになった。戦後442連隊は英雄として凱旋したが、敗戦国日本人への差別は戦前以上に厳しく、それに反発したジョーはシカゴに出てマフィア組織の博打のディーラーとしてのし上がり、イタリアンマフィア最大のボス、ニューヨークのカルロス・ガンビーノの組織に入る。やがて。日系人ファミリー、モンタナファミリーを結成。十年後には8軒のカジノ、10軒のキャバレー,4軒のホテルをLAとハワイに持ち自家用飛行機で飛び回る、押しも押されもせぬマフィアの大幹部の身分となったが、その羽振りの良さがFBIに目を付けられることを恐れたイタリアンマフィアのボスの手下に狙撃される。奇跡的に命を取り留めたジョーはマフィア組織との決別を決意する。1985年シカゴで行われた大統領諮問委員会による「組織犯罪に関する公聴会」でシカゴとニューヨークのマフィアの秘密の全てをぶちまけた。その結果マフィアだけではなく警察官、政治家など多くの者が有罪判決を受けた。・・・・・・そしてジョーはFBIの保護下、闇に消えた。

 このジョーの数奇な人生を「モンタナジョーの伝説―マフィアのボスになった男」というドキュメンタリーに村上早人と言う在米の作家がまとめた。その本を基に松竹の奥山プロデューサーがドキュメンタリー映画にしたのが「TOKYO JOE」。1949年に作られたアメリカ映画「東京ジョー」とは何の関係もない。

 マフィアには「オルメタ」という言葉がある。ファミリーの秘密を守る掟という意味だ。ジョーは父江藤衛の葬儀には喪主でありながら出席しなかったという。マフィアの最も大切な掟オルメタを捨てたジョーを、キュメンタリー映画ではFBIの女性警官が「最低の男」と評している。だが早川氏はジョーの事を「金のない日系人にはお金を与え助けていたと多くの日系パイオニアの方たちから聞いた。また田舎から出てきて金に困り売春婦になった若い娘たちにアパートを借りてあげ、車を買い与え学費まで出して更生への道を開いてあげた男気の人物であったことも最後に特筆しておきたい」と書いている。

 矛盾に満ちたジョーの生涯を貫くものは何だったのか。ドキュメンタリーを基に想像の羽根をはばたかせ、私はこのドラマの中に拘りと意地を貫く一人の男の、滅びの美学のようなものを描きたいと思う。そして日本とアメリカという切っても切れない関係への考察、祖国への思い、祖国を愛する、祖国を失うという事は一体どういうことなのか?が描ければ幸いである。

 出演 松村雄基、大鶴義丹、原田大二郎、早瀬久美、石村とも子他

 作・演出 野伏翔

 9月4日より東京六本木 俳優座劇場にて公演。よろしければ是非ご覧ください。

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