kokutai「日本への回帰」「揺るぎなき国体」

【日本への回帰】 アジアの発見と興亜論  荒岩宏奨(展転社代表取締役)

 平成23年3月11日の東日本大震災で、北茨城市の五浦海岸にあった六角堂が津波によって流されてしまった。六角堂を建設したのは、明治期の美術家、天心岡倉覚三である。「Asia is one」ではじまる『東洋の理想』は当時の英文で書かれた日本の三大書物のひとつである。

 明治維新後、我が国ではアジアとの関係をめぐって国論がふたつに分かれた。ひとつはアジア諸国と連帯して西洋列強の侵略を防ぐ興亜論。もうひとつは、西洋列強の侵略を防ぐためにヨーロッパの仲間入りを目指し、「脱亜入欧」を唱へる脱亜論である。

 日本が、またはアジアが、「アジア」を意識したのは幕末から明治初期にかけてであった。それまで、日本やアジアはアジアといふ概念をもってゐなかった。唐、天竺を中心とする中華世界があり、その中華体制に入らない日本があった。ただそれだけだった。もちろん、それ以外にも世界が広がってゐることは知ってゐた。戦国時代には、西洋から鉄砲や耶蘇教が伝来してゐる。天平期にさへ、シルクロードを通って、西洋から日本にまで届き、それは正倉院に保存されてゐる。それでも、アジアといふ意識や認識はなかった。

 それでは幕末から明治初期にかけて、なぜアジアといふ意識が起こったのだらうか。

 ≪近代史の開始を意味する「アジアの發見」は、ヨーロツパによつて、ヨーロッパのために、アジアをアジアをいふ形に定めたことであつた。ヨーロツパ對アジアといふ形で、アジアは一つの概念として發見せられた≫ (保田與重郎『日本に祈る』「農村記」)

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