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「日本を救ったノモンハンの勇士たちを忘れるな」 西村眞悟

例年、八月に入ると、毎日、連日、アメリカ軍による都市の無差別爆撃の犠牲者や原爆の被災者の姿そして住民を巻き込んだ沖縄戦の惨状の映像がテレビ画面に映し出され、これは十五日の日本武道館に於ける天皇陛下御臨席の政府主催の戦没者慰霊式典まで続く。そして、十五日が過ぎて翌日になると、戦没者慰霊式典の主催者は、ゴルフ場にいて、テレビから戦争の映像はピタリと無くなり、まるで違う国になったようだ。

 そして、ふと思った。実際の昭和二十年八月十五日が過ぎた時も、このように、違う国になったようだったのであろうか、と。何故なら、次の体験談と「マッカーサーへの手紙」そして、我が国のエリート達の占領軍への迎合が思い出されたからだ。

 

大正六年生まれの作家の伊藤桂一さんは、七年間、中国戦線に従軍し、敗戦後に日本に帰還したときの体験を次のように書いている。「入国の時、まるで、帰ってこなくてもよい汚い厄介者が帰ってきたような扱いをうけた。兵隊が、このような惨めな帰還をする国が他にあるのだろうか」

 また、原題が「日本の占領1945―1952と日本の宗教」というアメリカ人が書いた本の「訳者まえがき」を読んで、早くも一九四五年九月七日付けの速達で、日本国民から「マッカーサー元帥の萬歳を三唱し、あわせて貴国将兵各位の無事御進駐を御祝申しあげます」という手紙がマッカーサーに届けられたこと、また、「マッカーサー様、あなたの子供を産ませて下さい、と書き送った勇敢な女性が多くいた」ことを知った。

 さらに、我が国を占領した連合軍の当初の意向は、イタリアと同様に、我が国から「皇帝」を無くすことであり、戦時中に政界や財界の名士として威張っていた者に限って、その連合軍の意向に迎合していたという。そして、連合軍はイタリアと同様に、「皇帝」廃止の声を労働組合指導者に挙げさせようと目論み、後に民社党を結成する西尾末広や松岡駒吉を呼び出し、「皇帝廃止の声を挙げよ」と指示したという。その時、西尾らはキッパリと断り次のように言った。「日本の天皇と勤労者は不可分一体である」と。以後、連合軍は「天皇廃止」をピタリと言わなくなった。

 以上のように、実際の八月十五日も、表面上は、がらりと変わったのだと思う。しかし、日本という普遍の岩盤と地下水は七十七年前の八月十五日も現在の八月十五日も変わることなく存在し流れ続けていると確信する。日本は悠久の太古から「万世一系の天皇を戴く家族の国」であるからだ。そして、表面上の世相がどう変わろうと、忘れてはならないのは、この悠久の太古から続く日本の為に命をかけた人々のことだ。

 

そこで、八十三年前の五月から九月にかけて、満蒙国境のノモンハンで命をかけてソ連軍と戦い、北海道を守り日本の半分が共産国になるのを阻止した日本軍兵士のことを記しておきたい。昭和十四年五月から九月まで続いたソ連軍とのノモンハンでの戦闘で、我が国の第二三師団二万人は善戦の末に壊滅した。このノモンハンの敗北は、戦後の日本では無謀な戦争の好例として反戦のメッセージによく取り上げられる。

 しかし、ソビエト崩壊後に閲覧できるようになったクレムリン文書から分かったことは、彼ら第二三師団の二万人の将兵は、ゲオロギー・ジューコフ将軍(後に元帥)率いるスターリン自慢の二十三万人のソ連軍機械化部隊を壊滅させていたのだ。

ノモンハン戦に於ける

日本軍戦死者8741名、負傷者8664名、合計1万7405名、

ソ連軍戦死者9703名、負傷者1万5952名、合計2万5655名。

破壊された戦車、日本軍29台、ソ連軍800台。

撃墜された航空機、日本軍179機、ソ連軍1673機

 第二次世界大戦後に西側の記者から、「一番、つらかった戦闘は何処との戦闘ですか」と質問されたソ連軍のジューコフ元帥は、独ソ戦を挙げず、「日本軍とのノモンハンでの戦いが一番つらかった」と答えている。

では、満蒙国境に二十三万の大機械化部隊を送り出したスターリンの目的は、何か。それは、コミンテルンの世界赤化の第一歩としてのモンゴル人民共和国に続き一挙に満州人民共和国を建設することだった。そのスターリンの野望を粉砕したのがノモンハンの二万の日本軍将兵だった。それ故、スターリンは日本軍の強さに驚愕し、以後、日本軍を恐れた。

 その結果、スターリンは東の日本との戦闘中に西のドイツと戦闘に入ることを恐れ、昭和十四年八月二十三日にモロトフ・リッペントロップ協定「独ソ不可侵条約」を締結した。「欧州の情勢は複雑怪奇」だからではない。東の日本軍が強くて恐いから西で独ソ不可侵条約を締結したのだ。

 すると、ドイツは一週間後の九月一日にポーランドに侵攻した。他方、スターリンは、ドイツとポーランドを分け合うため、日本との停戦を急ぎに急ぎ、九月十六日にノモンハンでの停戦協定にこぎつけると、その翌日の十七日に、ポーランドに侵攻した。

 さらにスターリンは、ヒトラーの対ソ侵攻・バルバロッサ作戦発動が近づいたと感じ取り、日本に接近して昭和十六年四月十三日、相互不可侵及び一方が第三国に攻撃された時の中立を約した日ソ中立条約を締結する。その結果、案の上、六月二十二日にドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まるが、日本は日ソ中立条約を守り東からソ連に侵攻していない。

W・チャーチルは言った。「もしあの時、日本がソ連に侵攻して居れば日本は勝利しただろう。この時が、日本が勝利者となる唯一のチャンスだった」

 このように、日本は約束を守るが、スターリンは、約束は破るものだと思っていた。昭和二十年八月九日午前零時、ソ連軍の戦車と航空機は満州に雪崩れ込んできて、我が国がポツダム宣言を受諾した後も攻撃を止めなかった。そして、八月十八日、八千八百名のソ連軍が千島最北の占守島に上陸してきた時、第五方面軍司令官樋口季一郞中将は、「断乎反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」との命令を発した。その結果、上陸したソ連兵二千名が戦死しソ連軍は震え上がった。

 仮に、スターリンにノモンハン戦で生まれた対日恐怖心が無かったならば、ソ連軍はもっと早く対日戦争を開始し、北海道は確実にソ連領となっていただろう。そして、本州の日本海側もソ連軍に制圧されていたであろう。

したがって、我々は、八十三年前の八月、スターリンに日本軍への恐怖心を植え付けて、遙か満蒙国境のノモンハンの草原に斃れていった八千七百四十一名の日本軍将兵のことを忘れてはならない。