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【熱海の興亜観音の七士の碑と三ケ根山の殉国七士墓】 奥本康大(「空の神兵」顕彰会会長)
〜 東條英機大将はじめ七名は、横浜の久保山火葬場で荼毘に付され、遺灰の一部は興亜観音関係者が隠し持っていた 〜
東京裁判で大東亜戦争の戦争責任を問われ、いわゆるA級戦犯として死刑を求刑され、昭和23年12月23日に法務死された松井石根大将、廣田弘毅元首相、土肥原賢二大将、板垣征四郎大将、東條英機大将、木村兵太郎大将、武藤章中将のことを七士或いは殉国七士と呼ばれています。
七人の遺骸は、即日に横浜市保土ヶ谷区の久保山火葬場で荼毘に付されました。遺灰はご家族に還されず、遺灰の殆どは東京湾に散骨されたと伝えられています。
しかし、東京裁判の弁護を担当した三文字正平氏らは、占領軍の行動を察知し、夜陰に乗じて、遺灰の一部を掻き集め、占領軍の目を欺き、『興亜観音』に運び、秘密裏に保管しました。
(七士の遺灰である事は伏せて、他の物故者の遺灰として長期間、大切に保管されていました。)
昭和34年、興亜観音奉賛会会長で実業家の高木陸郎氏は、興亜観音境内に七士の碑を建立しようと計画され、その年の秋、吉田茂元総理の揮毫を刻んだ「七士の碑」を完成させました。
(この時、七士の遺灰が保管してあった事を公にさる、興亜観音の傍の七士の碑の場所に埋葬されたそうです。)
しかし学生紛争が盛んだった昭和46年12月、過激派学生数名が、「七士の碑」や併設されている「供養碑」と「興亜観音像」に導火線を仕掛け、火薬で爆破をはかりました。
この時「七士の碑」は大きく3つに割れてしまいました。
3つになった「七士の碑」は、有志の献身的努力で翌年8月に修復されました。
(痛ましい傷跡はあるものの、今日に至っています。下の写真)
話は前後しますが、殉国七士墓は、昭和35年に、愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山に建立されました。
この碑は、高さ5メートルほどあり、「殉国七士墓」と彫られていますが、揮毫は、当時の首相、岸信介によるものです。
この時、興亜観音側が保管していた遺灰を、殉国七士之墓に、分け与えたと聞いています。
遺灰は松井岩根大将の縁の興亜観音に保管されてましたが、興亜観音の人たちは、昭和殉難者への慰霊・顕彰の主旨を理解され、気持ち良く、関係先への分葬に応じられたのです。
上記二箇所の他に長野県のお寺にも分葬されていると聞いています。
いずれにせよ、東京裁判の誤った歴史史観を払拭しなければ、日本は再興出来る訳がありません。
多くの方に参拝戴き、東京裁判史観を粉砕しなければなりません。
皆さん、一度はお参り戴ければと思います。
特に、七士のお一人でもある松井岩根大将が願主となられ建立された興亜観音は参拝する方も少なくようです。
興亜観音は熱海の海を見渡せる絶景の場所にあり、ピクニックも兼ねて参拝戴ければ有り難いです。