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「阪神淡路大震災の犠牲者は、生きる我らに「戦後体制=日本国憲法体制」からの脱却を促している」 西村眞悟

二十七年前の平成七年一月十七日午前五時四十六分、阪神淡路大震災が発災した。そして、本年も一月二十七日から連日、神戸における被災者の追悼と慰霊の行事の報道が続いていた。しかし、国民の生死を分ける肝心要の教訓(警告)が報道されていない。

それは、国家の最高指導者が危機において無能であれば、死ななくてもよい多くの国民、助けることができた多くの国民が無残に死ぬということだ。このことを、戦前の人は「馬鹿な大将、敵より恐い」と言った。そう!「馬鹿な総理大臣は、敵(地震)より恐い」のだ。

重大教訓を、日本国民たる者全員が、国家と国民の将来の為に得心していなければ、多くの犠牲者が浮かばれないではないか。次ぎに、警察、消防及び自衛隊の、阪神淡路大震災における生存者救出数と、平成二十三年三月十一日午後二時四十六分に発災した東日本大震災における生存者救出数を列挙する。

阪神淡路大震災では、警察による救出者は3495人、消防による救出者は1387人、そして自衛隊による救出者は165人であった。東日本大震災においては、警察による救出者は3749人、消防による救出者は4614人、そして自衛隊による救出者は1万9286人である。

この両大災害における生存者救出活動の顕著な差は、阪神淡路大震災では自衛隊が救出したのは全救出者の約3%に過ぎなかったが、東日本大震災では、それが全救出者の約70%と激増したことである。東日本大震災において、生存者を救出するという国民の命に関わる分野において自衛隊は、圧倒的な役割を果たした。しかし、この力量を実証した自衛隊が、二十七年前の阪神淡路大震災においては、何故、全救出者の約3%しか救出できなかったのだ。この顕著な差の原因は何か。これを国民は知っておかねばならない。

それは、自衛隊救出の初動に、遅れが有ったか否かだ。阪神淡路大震災では初動が遅れた。しかし、東日本大震災では、自衛隊は発災と同時に出動を開始して初動に遅れは無かった。これが国民の生死を分けたのだ。このこと、繰り返し国民に報道すべき重要事項であるにもかかわらず、我が国のマスコミは報道しない。そこで、本稿を以て、この重要事項を明確にしておく。

これは、単純にして明快である。繰り返すが「馬鹿な大将は敵(地震)より恐い」のだ。阪神淡路大震災では、その「馬鹿な大将村山富市」が出動の命令を発するのを自衛隊が待った。従って、自衛隊の初動が遅れ、多くの死ななくともよい国民が亡くなった。これに対し、東日本大震災では、総理の菅直人が村山富市と同様の「馬鹿な大将」であることを、とっくに見抜いていた自衛隊の統合幕僚長と陸海空の各幕僚長は、午後二時四十六分の発災と同時に、「馬鹿な大将菅直人」を通さず、全自衛隊に出動を命じた。

振り返れば、阪神淡路大震災の朝、内閣総理大臣村山富市は、通常の予定通り財界人との朝食会をして最後まで予定通り喰っていた。その上、長年にわたって自衛隊は違憲だと主張してきた社会党の委員長である村山富市は、自分が自衛隊の最高指揮官であることの意識が無かった。それ故、何もしなかったことの言い訳として「なにぶん朝も早かったし初めてのことだったから」と言った。これ、国民の生死に無関心な、己の責務を自覚しない絵に描いたような馬鹿ではないか。しかし自衛隊は、この馬鹿の命令を今か今かと待った。また、兵庫県知事も、前日から何処に泊まっているか居場所が分からず、自衛隊の出動を要請できるはずもなかった。これが被災地の国民の生死を分けたのだ。

それ故、発災の朝、伊丹から黒煙の高く上がる神戸を目の辺りにしながら出動できなかった中部方面総監の松島悠佐陸将は、その後の退任の記者会見において、その無念さが込み上げ嗚咽したのだ。

しかし、この松島総監の無念は、全自衛官幹部に染み渡って忘れられることなく、十六年後の東日本大震災において全自衛隊幹部は一瞬たりとも、「馬鹿な大将菅直人」の命令を待って出動しようとは思ってもいなかった。そして、この判断は極めて正しく、前記の通り多くの国民の命を救った。

そもそも「シビリアン・コントロール」とは、他国と戦争を開始するか否かの判断は、国民に最大の政治的責任を負う内閣総理大臣や大統領が決定するものであり、軍の司令官が勝手に戦争を始めてはならないということであって、目の前で土砂や津波に飲まれようとしている国民を救出する際とは無関係である。

事実、東日本大震災の被災地の真ん中にある多賀城の陸自第二十二歩兵聯隊の國友昭連隊長は、射撃練習場での訓練が終了して聯隊に帰隊する車両の中で激しい揺れに襲われ、車中から携帯電話で上級司令部の第六師団久納雄二師団長に連絡を取り、「(部隊を)出します!」と一言告げるや、師団長は直ちに「よし、出せ!」と応じた。よって、第二十二聯隊九百名は、そのまま、家族が罹災しているのに家族の元に戻らず、直ちに被災者救出に没頭したのだ。その結果、二十二聯隊九百名で、自衛隊十万七千人の空前の救出部隊が救助した約二万人の内の四分の一に当たる四千七百七十五人の被災者を救出した。この救助行動に没頭したある隊員が國友連隊長に託した手記の一部を次ぎに記しておかねばならない。

「・・・私の妻も息子を救助に向かう途中で津波に襲われました。車両もろとも流されました。その状況を知ったのはその三十分後でした・・・。携帯で連絡がとれた時の妻の『助けて・・・』という寒さと恐怖が入り交じった悲痛の叫びを聞いた瞬間、私の中で、このまま部隊を出て一分一秒でも早く妻の所へ飛んでいきたいと思いました。

その心の苦痛から答えを探していた時、再度妻から連絡があり、「大丈夫だから、他の人を助けてあげて」。その言葉に我に返りました。そこからもう迷いはありませんでした・・・」

発災時に戻るが、その時、丁度、折木良一統合幕僚長と陸海空各幕僚長は、防衛省A棟十一階で会議をしていて猛烈な揺れに襲われた。そして震源地と地震の強度を確認し、四人の幕僚長は全自衛隊出動に決した。特に救出活動の主体になる陸上幕僚長火箱芳文陸将は、越権行為とか超法規的措置とかの非難があっても陸上自衛隊の全部隊を統括する覚悟を決め、直ちに全国の部隊の「戦闘序列」を決定し、その編成が決定された部隊を現地に早く結集させる為に、君塚栄治東北方面総監に電話し、「そこに全国の部隊を集める。君が指揮をして災害にあたれ」と命じた。ここに空前の十万七千人の陸海空自衛隊の、国民を救助する統合任務部隊が一挙に誕生する。

また、海上自衛隊は、発災の六分後の午後二時五十二分に、創設以来初めての「全可動艦艇出航」という命令を発し、全可動艦艇に「三陸沖に向かえ」と命じた。ドッグに入っていた艦艇も修理を取り止めドックから出て三陸沖に向かい、海外で演習中の護衛艦も演習を中止し反転して三陸沖に向かった。これを見た、アメリカ海軍の幹部士官は、我が海上自衛隊幹部に、「こんなに早く全艦艇を出せる海自の能力は世界一だ」と言った。

しかし、二十七年前の阪神淡路大震災の時には、我が国はまだ、総理大臣はもちろん兵庫県知事も神戸市長も「戦後体制=日本国憲法体制」の中に閉じ込もったままだった。兵庫県も神戸市も、呉から救援のために来航した護衛艦や、神戸に出動して救援基地になろうとしたアメリカ海軍空母の神戸港入港を拒否したのだ。しかし、その十六年後の東日本大震災の時は、総理大臣とマスコミは未だ戦後体制内痴呆であっても、自衛隊と被災地の国民は、戦後体制から脱却したのだ。

その上で、特筆すべきは、

天皇が、日本の統治者であられたことが顕在化したことだ。

これ、戦後体制内政党とマスコミが見ても見えない事実だ

そのとき、総理大臣の菅直人は、官邸と東電本社でわめいているだけで、被災地も歩けなかった。歩けば、殺されたかも知れない。つまり統治者ではなかった。

天皇は、三月十六日に、全国民にお言葉を発せられ、被災地の人々の「苦難を克服しようとする雄々しさ」を讃えられ、自衛隊を筆頭に挙げられて、その昼夜を問わない懸命の救援行動に感謝され、各国の元首から日本の元首である御自分へ送られたお見舞いの電報を報告された。

さらに、天皇皇后両陛下は、被災地視察とお見舞いと御激励の為、自衛隊機で自衛隊松島基地に降り立たれた。この時、十万七千の自衛隊統合任務部隊部隊長の君塚栄治陸将は、滑走路において、降り立たれた天皇陛下に、野戦服と鉄兜の姿で正対し、敬礼した。

以上の未曾有の災害時に顕れた天皇の御存在、

これを日本の元首にして統治者と言わずして何と言う。

従って、被災者救出に没頭する自衛隊は、「天皇の自衛隊」であった。

よって、君塚栄治部隊長は、天皇に正対して敬礼したのだ。