kokutai「日本への回帰」「揺るぎなき国体」
【日本への回帰】 書評『続民社育ちで、日本が好き』 寺井 融 (展転社) 荒岩宏奨(展転社代表取締役)
かつて、民社党という政党が存在した。昭和35年に日本社会党を離党した西尾末広らによって結成された政党である。結党時の党名は民主社会党で、昭和44年に改名している。
日本社会党から分かれたことや民主社会党という結党時の党名からわかるように、社会主義を掲げた政党だった。民主社会主義である。防衛政策などは自民党よりも右に位置していた。平成6年に新進党の結党に伴い、民社党は解党した。国会の現状を見ていると、いま民社党があったら…と思う人は意外と多いのではないだろうか。
『続民主育ちで、日本が好き』の著者・寺井融氏は、その民社党の本部職員だった。
民社党本部が解散したときの寺井氏の肩書きは「総務委員会事務統括兼総務局局次長兼団体渉外局局次長」だったらしい。長い肩書きだ。このように漢字が羅列してあるとわかりにくいのだが、要するに「総務委員会事務統括」と「総務局局次長」と「団体渉外局局次長」という3つの役職を兼ねていたようである。
そして、これらの役職は寺井氏自身でつけたとのこと。人事案を任されたのだ。その時のことをこう振り返えっている。
《副委員長でもあった西村章三総務局長から、「人事案を考えろ」といわれたのは、前の年のことか。大胆な改革をやろうということになり、各局・委員会を束ねる形で総務、組織、広報、政策、国会の五委員会を発足させた。そして、委員長、局長、副局長という役員職のほか、職員には事務統括、局次長、局次長代理、部長のポストを割り当てた。政治は、ある意味ではったりの世界でもある。とはいえ、小党であったのに大仰なものだ。
人事配置の「素案」を作るにしても、まず困ったのは、ポストはあれども人材が足りないこと。A氏を広報にするとしたら、B氏は組織となるのか。少ないカードをどう組み合わせてみても、兼任を設けたりしても、うまく行かない。不満も出るだろうなあ。
そう思案したあげく、自分のポストを最後の空いたところにする方針を固める。適材適所を旨として、各自に役職をあてはめた》
寺井氏は民社党の機関誌編集にも携わっていた。
《一九七二年、民社党は中央理論誌『革新』(月刊)を創刊。前年、大学を卒業し、党本部に入っていた私が、『革新』事務長(編集実務責任者)となった。『改革者』を参考にしながら編集にあたる。その一方、『改革者』に共産党、社会党、社会主義協会、革新自治体、国鉄、インドシナ難民問題、ミャンマーなどについて本名やペンネームでよく書かせてもらった。中でも政策審議会の梅澤昇平さん(現尚美学園大学名誉教授)と「日本共産党のすべて」と題し、十八課題について分担執筆をしたことが懐かしい。一九九三(平成五)年、その梅澤さんが大内啓伍厚生大臣の政務秘書官となり、『改革者』誌の編集委員を退かれた。その後任として当方を指名。かれこれ二十八年、編集委員を務めていたことになる》
このように民社党時代の思い出話、こぼれ話もあるが、そればかりではない。学生の頃のエピソード、女友達のエピソード、孫のエピソード、海外旅行のエピソードなど84篇のエッセイと6篇のコラムが収録されている。そのほとんどは見開き2ページでの読み切りとなっているので、肩肘を張らずに、くつろぎながら読んでいただきたい。