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国家意識なき地方自治の惨状 ――東京都武蔵野市の場合 里見日本文化学研究所所長 亜細亜大学非常勤講師   金子 宗德

 明治日本の地方制度

 モナコやシンガポールといつた都市国家を除き、大半の主権国家には、中央政府の他に地方政府が存在する。両者の関係は様々であるが、大まかに云ふと、中央政府に国家主権を集中させてゐる単一制国家と中央政府と地方政府とが国家主権を分担する連邦制国家に分けられ、我が国は前者に属する。因みに、後者の代表的存在はアメリカ合衆国だ。各州は立法・行政・司法の三権だけでなく州兵まで保持し、中央政府たる連邦政府と対立することもある――その最たるものが、連邦を離脱した南部諸州と中央政府とが戦火を交へた南北戦争だ。

 我が国が現在のやうな単一制国家になつたのは、明治維新後である。それ以前も江戸幕府といふ中央政府は存在したが、地方政府にあたる各藩は独自の財政基盤を有し、武力を養つてをり、一部の雄藩が欧米列強の圧力に対応できぬ幕府を武力で打倒し、天皇を戴く明治新政府を樹立した。

 そのやうな経緯ゆゑ、明治新政府は中央政府の強化を志向する。版籍奉還・廃藩置県・琉球処分を行つて旧来の統治機構を破壊した上で、三新法(郡市町村編成法・府県会規則・地方税規則)を定めるなど地方制度の整備を進めた。また、中央政府の直轄地であつた北海道でも府県に準ずる制度が整備される。また、大東亜戦争中に東京府が東京市(現在の区部を領域としてゐた)の権限を吸収する形で東京都が成立し、現在の都道府県・市町村制が確立した。

 これら都道府県や市町村は法人とされ、道府県には条例制定権が認められたものゝ、大日本帝国憲法には地方政府を巡る規定は存在しなかつた。さらに、都や道の長官・府知事・県令は中央政府から派遣され、中央政府の許可なく独自に地方税を課すことが出来ぬなど、これらの機関は中央政府の出先機関としての性格が強い。

 かうした明治以来の地方制度は、外敵から侮りを受けぬやう国力を集中させるといふ面では大きな意味を有したけれども、末端たる地方を疲弊させたことも否めない。それゆゑ、「社稷自治」を重んずる権藤成卿は明治以来の政策を厳しく批判した。

 

 日本国憲法の構造的欠陥

 このやうな在り方は、大東亜戦争敗戦後に日本国憲法が施行されたことにより大きく転換した。同憲法は第八章「地方自治」に四箇条を設け、地方政府である地方公共団体の性格・首長や議員の選挙法・条例制定権などについて規定してゐる。

 それらによれば、地方公共団体の組織及び運営に関する事項は「地方自治の本旨」に基づいて、法律の範囲で行はれる(第九十二条)といふ。本旨の内容は条文に明記されてゐないが、憲法学・行政学においては、①地方自治は地域社会の住民の意思によつて行はれるべきといふ「住民自治」、②地方自治は中央政府から独立した地方政府によつて行はれるべきといふ「団体自治」の二つの原則に適ふことゝされてゐる。それゆゑ、首長や議員は住民の直接投票で選挙されなければならず(第九十三条)、地方公共団体は独自の条例を定めることが出来る(第九十四条)。

 我が国の国土は東西南北に広がつてゐる上に、沿岸部もあれば山間部もあり、過密に悩む都市もあれば過疎に悩む僻地もある。その上、人権問題や国の産業政策との絡みで難しい問題を抱へてゐる地域も少なくない。さうした地域特有の課題を解決するためには、地方公共団体が住民の意向を踏まへながら対処していく必要があり、これらの規定が必要であることは云ふまでもない。

 そこで問題となるのは、「住民」といふ概念だ。

 地方自治法において、「住民」は「市町村の区域内に住所を有する者」(第十条一項)と規定されてをり、日本国籍の有無を問はない。そのため、日本国憲法の「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」(第九十三条二項)といふ規定を振り翳して、外国籍住民にも地方公共団体の政治に参加する権利を与へよと主張する手合ひが現れる。「住民自治」の原則からすれば、地域住民として生活し、住民税を納めてゐるにもかゝはらず、日本国籍を有してゐないといふ理由で外国籍住民の参政権を否認することは差別であるといふのだ。

 「地方公共団体に納税してゐるのだから参政権を認めよ」といふ主張は、「代表なくして課税なし」といふアメリカ独立戦争のスローガンに触発されたのだらうが、この論理が正当ならば、収入が少なくて納税してゐない者は参政権を剥奪しても良いといふことになつてしまふ。そも〳〵、税金は行政サービスの対価であり、如何なる行政を進めるかのルールを決める、別の云ひ方をすれば、如何なる行政サービスを提供するかを決定する参政権と絡めて論ずるものではない。

 また、憲法学者の中には、地方自治は中央政府の定めた法律の範囲内で行はれるのだから外国籍住民の参政権を認めても憲法違反にはならぬと主張する者も少なくないが、沖縄県の行動が米軍基地を巡る中央政府の政策に影響を与へてゐることからも分かる通り、地方公共団体の行為が中央政府の活動を実質的に左右することもあり得るわけで、「法律の範囲内」といふ形式に準拠してゐれば問題ないといふ議論は、政治音痴の為せる業か、何らかの底意を秘めたものとしか云ひやうがない。

 この問題について、司法当局は、日本国憲法の第十五条一項に「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と定められてゐる以上、第九十三条二項における「住民」は「日本国籍を有する住民」であるといふ解釈を堅持してゐる。

 因みに、第九十三条二項の「その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する」にあたる英文は〈by direct popular vote within their several communities〉=「諸共同体の内部における一般投票」であり、「住民」といふ語は存在せぬ。日本国憲法が制定された時点では、国内に住む外国人は殆ど居なかつたし、定住を望むならば帰化して日本人になれば良いのだから、何の問題も生じないと考へられたのだらうが、社会の変化に伴つて、その構造的欠陥が露はになつたのである。

 

 「橋頭保」としての住民投票

 本来なら、憲法九十三条第二項を「その地方公共団体の日本国籍を有する住民が、直接これを選挙する」と改正すべきだらう。とは云へ、国政与党の一角を占める公明党が「永住外国人に対する地方参政権付与」をマニフェストに掲げてをり、それは実現不可能と云はざるを得ない。それゆゑ、司法当局の解釈頼みとなるわけだが、世論の動向次第では解釈が変はる可能性もある。

 そのことを最も理解してゐるのは、一部の外国人とその支援者である左派リベラル勢力だ。この連中は、外国籍住民が地方公共団体の政治に関与してゐるといふ既成事実を作り、そこから済し崩し的に地方参政権を認めさせようとしてゐると見て間違ひない。その視野には、国政への直接的関与も視野に入つてゐる。常識的に考へれば、それは先述の現行憲法第十五条一項に抵触するのだが、浦部法穂(神戸大学名誉教授)のやうに、「国民」は必ずしも「国籍保持者」意味せず、憲法改正をせずとも定住外国人の国政参政権を認めることは可能だと主張する者も居るのだ。

 云ふまでもなく、かうした動きは、国民・領域・主権といふ主権国家の三要素を否定するものであるのみならず、ひいては、民族共同体としての「国体」の破壊を目指す革命思想であり、如何なる小さな動きであらうとも潰しておかねばならぬ。

 去る十月三日、弊研究所の所在地であり、筆者の居住地でもある東京都武蔵野市で市長選挙が行はれ、現職の松下玲子が再選を果たした。立憲民主党・共産党・社民党・れいわ新選組に加へて左派系地域政党の生活者ネットワークおよび新左翼系無所属議員の支援を受けた彼女は、「武蔵野市パートナーシップ制度を条例化」。「核兵器禁止条約に自治体として参加表明し、国に参加を強く要請する」などと並んで「常設型住民投票条例制度を確立する『住民投票条例』の制定」を公約に掲げてゐる。

 その概要は『市報むさしの』(令和三年八月十五日)に掲載されてゐるが、廃置分合や境界変更のみならず市政に関する重要事項に関して、議会の承認を経ることなく住民投票を行ふことが出来るといふものだ。市議会の意向を無視して住民投票を行ふことじたい議会制民主主義を否定するものであり、市長独裁の具とされかねないけれども、それ以上に問題とすべきは、市内に三ヵ月以上居住する十八歳以上の者であれば外国籍であつても投票可能といふ点である。これは、まさに既成事実の構築であり、外国人地方参政権を実現するための橋頭保である。

 市長与党の藪原太郎市議(立憲民主党)は、「この住民投票制度は法的拘束力を持ちません」、「特定の思想を人数でゴリ押しするとして、発議に33000人以上、成立に66000人以上が必要です」とSNSで主張してゐるが、さうした形式主義的な主張は、「法律の範囲内」であるから外国人に地方参政権を認めても構はないといふ議論と同じく、政治音痴の為せる業か、何らかの底意を秘めたものと評すべきだらう。

 それにしても、自由民主党および公明党が支援した候補はコロナ対策と吉祥寺駅前の土地不正売却疑惑ばかり取り上げ、この問題を全く争点にしなかつたのが実に残念である。地方自治においても、国家意識は必要不可欠なのだが…。

(国体文化)