ken「筆は剣よりも危うし」

【筆は剣よりも危うし】 選挙における放棄権と拒否権 三澤浩一(武客)

 令和3年10月31日、第49回衆議院議員総選挙が実施された。自民党の圧勝である。まさしく圧勝といえる。

 衆議院の定数は465人、過半数は233人、安定多数とやらは244人、17ある常任委員会の委員長を獲得しても委員会の過半数を確保する絶対安定多数は261人だ。自民党は11月1日現在、261人が当選した。単独で絶対安定多数を獲得したのだから、なんといっても圧勝、大勝である。

 正直な気持ちでいえば、自民党が勝ったことを喜ぶことは難しい。しかし、共産党と手を組んだ立民党が敗北したことは素直に喜べる。喜ぶというよりも、安堵した。

 このたびの選挙では憂えることが大きくなった。投票率の低さである。投票率は55.93パーセントという戦後3番目の低さだったと報じている。これには驚いた。

 有権者の意識というのか、国民の政治への関心が低いのか。自民党などの権力を握る勢力が、国民の政治への参加を促すことを妨げているのでは…とも疑ってしまう。

 もっとも国政選挙は50パーセントを超えるのだから、まだましだ。これが地方選挙だったら、どうか。首長や議員を問わず、投票率はひどいもんだ。国政でも補欠なんかは同じようなもんか。

 

 そこで、選挙における権利、有権者の新しい権利を提案する。放棄権と拒否権だ。ここでは国会から都道府県、市区町村の議員に対してのものを述べる。

 

 放棄権とは、その選挙区における議員の存在を放棄する権利だ。

 

 現在の棄権とは違う。選挙を放棄するのではなく、議員を放棄する権利である。議員はいらないと選択できる権利となる。投票率が50パーセントを超えない選挙では、その選挙区の代表となる議員は選ばれない。小選挙区でも、大選挙区でも、比例代表区でも、全て同じだ。その任期中、その選挙区から選ばれる議員は不在となる。

 

 この制度ができれば、立候補する者をはじめ所属する政党などは、今よりも真剣に投票率を上げることにつとめるのではない。

 

 拒否権は、選挙区に立候補した者を拒否する権利である。

 

 これは投票率が50パーセントを超えて、選挙が成り立つ場合とする。A候補とB候補とC候補が立った選挙区で、選挙の結果、候補者ではなく、白票や無効票が第1位となった場合、全ての候補者が拒否されたと判断して、あらためて選挙を行う。再選挙には拒否された候補者は出ることはできず、D候補とかE候補とかF候補とか、全く違う候補が出ることになる。立候補した者に選びたい者がいないが、議員を出したいとき、この拒否する権利を行使できる。

 この制度ができれば、候補者を公認する政党などは、10りも真剣に候補者を選ぶことになるはずだ。

 以上のように、放棄権は議員の放棄、拒否権は候補者の拒否である。

 現実にはありえないだろうが、最悪のときには衆議院議員が0になる可能性も否定できない。最悪ではなく、最良かも知れないか。

 また、選挙をやり直せば、多大な費用もかかる。時間も大変だ。しかし、民主主義には費用も時間もかかる。これは仕方あるまい。

 現状の政治を変えるためには放棄権や拒否権を考えてもいいのではないか。そう思い、愚案を呈する。稚拙な説明のため、わかりにくいかも知れないが、ご海容いただきたい。

 なお、首長については思案中である。

 

追記

 11月3日は明治節である。明治天皇さまのお誕生日だ。明治神宮には前日の11月2日、参拝した。

 零細家庭内事業の従事者だから、祝祭日にも休めない。特に11月3日は朝から夜までの勤務となった。そのため、当日ではなく、前日の参拝となった。

 原宿駅から参道を進むと、お猿さんと遭遇した。これには驚いた。神猿ではないが、これは吉兆と勝手に喜んでいる。神職さんに報せると、やはり驚いていた。どうやら第一通報者らしい。

 しかし、動画などは撮影していない。準備不足というよりも、そもそも操作できないためだ。僕の携帯電話の端末機はスマホではなく、いまだガラケーなのだが、僕は使いこなせていない。反省しきりである。

 11月2日は、山口二矢烈士の殉節日だ。山口烈士の墓参も行ったのはいうまでもない。