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【書評・感想】 土屋たかゆき・但馬オサム『偏向平和祈念館の建設阻止――東京大空襲容認史観を許すな』を読まれたい  小山常実(大月短期大学名誉教授)

 昨日、土屋たかゆき・但馬オサム『偏向平和祈念館の建設阻止――東京大空襲容認史観を許すな』(令和3年、展転社)を読み終えた

 本書によれば、平成10(1998)年から11年にかけて一旦中止となった「東京都平和祈念館」の建設案が再浮上しているという。中止となった「東京都平和祈念館」のコンセプトとは、《東京大空襲は日本の侵略戦争・戦争犯罪に対する当然の報いである》というものであった。東京大空襲は国際法違反の戦争犯罪である。そのことは、カーチス・ルメイという東京大空襲を指揮した男自身が、戦争に敗れていたならば自分は戦争犯罪人として処刑されていただろうと述べていることからも明白である。

 にもかかわらず、戦争犯罪である東京大空襲を容認して、被害者である日本側を悪者に仕立て上げようとするのが、「東京都平和祈念館」の建設案であった。その偏向ぶりは、東京大空襲などをめぐる追悼関係が展示計画の7分の1にすぎないことに現れていた。残りの7分の6が、東京は軍事都市だから爆撃されたといった内容や、日本のアジアに対する加害責任の追及といった内容で占められていたという。東京大空襲の追悼という本来の趣旨がすっかり無くなってしまった建設案であった。
 
 この建設案は、平成9(1997)年秋から113月までの土屋氏らの活動によって、一旦中止に追い込むことに成功した。本書は、当時の建設案や土屋氏らの活動を記録することを通じて、東京大空襲を容認する祈念館の建設は阻止しなければならないこと東京大空襲にテーマを絞った平和資料館を作らなければならないことを提起した書物である。

 以下、目次構成を示したうえで、特に感じたことを記していきたい。

目次
推薦の辞 藤岡信勝

第一章 平和祈念館に関する石原慎太郎都知事答弁
 質問(土屋たかゆき都議)
 答弁(石原慎太郎都知事)

第二章 東京大空襲とは何だったのか   平和祈念館を正す都民連絡会
 昭和二十年三月十日火の海と化した東京
 「東京を焼畑にしろ!」周到に計画された「東京大虐殺」の真相
 空襲遺族の嘆き占領軍の検閲と冷酷な行政のあり方

第三章 東京大空襲は戦争犯罪だ              但馬オサム
 アニメ『火垂るの墓』が極右主義映画?
 世界の戦争犯罪
 仰天の「東京大空襲訴訟」
 ゲリラはルール違反
 周到に準備された東京大空襲
 ウォルト・ディズニーと東京大空襲
 百三十回に及んだ東京への空襲
 業火に呑み込まれた帝都
 カーチス・ルメイという男
 「平和」と「追悼」
 「一般都民」を名乗る活動家
 東京は軍事都市か?
 十五年戦争論
 忘れられた汪兆銘
 日本共産党の虚妄
 テロリストを顕彰?
 「平和」を疑え
 コラム 重慶爆撃

第四章 市民と議会で勝ちとった東京大空襲容認史観の「東京都平和祈念館」建設阻止! 土屋たかゆき
 誰も知らない「東京都平和祈念館」展示計画
 軍事都市東京
 平和祈念館建設が決まった経過
 どうして加害を強調した祈念館構想になったのか
 初めから十五年戦争史観の「基本構想懇談会」
 隠されていた、展示の細目を決めた「基本計画に関する調査委員会」
 共同作業で行った偏向展示
 建設委員会の重大疑惑
 軍事都市東京は削除されていない
 知事も新聞を見ておりますので
 危険な財団運営方式
 この期に及んで情報かくし
 付帯決議は大きな勝利への第一歩(自公民無が賛成)
 私たちの考える東京都の平和資料館

第五章 全国の偏向平和祈念館            但馬オサム
 埼玉ピースミュージアム(埼玉県平和資料館)
 ピースおおさか(大阪国際平和センター)
 長崎原爆資料館
 沖縄県立平和祈念資料館

焼き尽くすため周到に計画された「東京大虐殺」

 本書の中心部分は第二章、第三章と第四章である。第二章・第三章を読むと、東京大空襲自体のことがよくわかる。昭和20(1945)年3月10日午前零時15分ころ、アメリカ軍の戦略爆撃機B29による焼夷弾投下により、東京の下町は火の海になった。わずか2時間半の間に、死者10、負傷者15万、家屋を失った者百万という大惨禍をもたらした。この東京大空襲を含めて、東京は130回にも及ぶ空襲を受けた。

 本書は、東京大空襲のことを周到に計画された「東京大虐殺」だと位置付ける。単に非戦闘員・民間人を狙った無差別爆撃だということだけではなく、用意周到に計画を立て、そのとおりに日本の家屋を焼き尽くして民間人を逃げられないようにして焼き殺した手口を見れば、「東京大虐殺」と位置づけるのが正しいと言える。

ユタ州の砂漠に「日本村」を作り、焼き尽くす実験を何度も繰り返した

 以下、東京大空襲自体について簡単にメモしていこう。

 昭和19(1944)7月、サイパンが米軍の手に落ちると、B29による本土爆撃が同年1124日から昭和2034日ま20回にわたって行われた。これは、基本的には、軍事目標の爆撃、精密爆撃とよばれるものであった。精密爆撃を指揮していたのはハルセン少将であった。ハルセンに代わって指揮官となったのがカーチス・ルメイであった。ルメイは、精密爆撃から非戦闘員を対象とする無差別爆撃へ転換した。ルメイは、ハンブルクの無差別爆撃を指揮したことで有名な男だった。

 ルメイは、江戸時代以降の大火を研究し、3月上旬の大火が半分を占めていることを発見した。そこで、日本陸軍記念日の310に決行するとを決めたという。

 アメリカ軍の中には、日米戦が始まる前から、日本の家屋を壊滅させるために焼夷弾で焼き払うのが良いという考えがあったと言う。そこで、昭和19(1944)年には、「ユタ州ソルトレイクにあるダグウェイ陸軍実験場に、実物大の木造日本家屋を配置し東京下町の街並みを模したオープン・セットを組んで、焼夷弾投下の実験場にした」(49)焼夷弾の主燃料としては、新開発のナパーム剤を使うことにした。

 この通称「日本村」と言われる木造家屋群は、日本滞在の経験をもつ建築家アントニン・レーモンドが設計したと言う。各家屋には箪笥や布団、本棚や本も持ち込まれた。物干しには洗濯物まで並べれていた。路地やポンプ式井戸まで再現され、井戸は水が出るように設計されていた。この「日本村」は、焼き尽くしてはまた再建し、また焼き尽くす、を繰り返した。これらの実験によって、詳細なデータを集めていったという。

人種差別に基づく東京大空襲

  昭和2037日、ルメイは下町地区への焼夷弾攻撃を指示した。ルメイは、「東京の人口密集地帯である本所区(当時)を中心とした東西5キロ、南北6キロの地域を目標と定め」(30)た。まず、25機のB29が二手に分かれて焼夷弾を投下してX状の火の壁を作る。次いで、目標地域の外縁全体に焼夷弾を投下して四角の火の壁を作った。人々は全く外に逃げられなくなる。そして最後に、四角の壁の中を絨毯爆撃した。「この作業に投入されたB29は三百五十機、焼夷弾は二千トンも上」(30)る。「これは国際法違反の明瞭な戦争犯罪であり、しかも第二次世界大戦中でも最大規模の戦争犯罪」(32)であった。

 こういう東京大空襲を行う背景には、日本人を人間とは見ない人種偏見があった。「戦争末期にアメリカの兵士の半数以上は日本人を皆殺しにする必要がある」(32)と考えていたとする調査がある。「東京都平和祈念館」構想とは、このような人種差別意識から行われた東京大空襲を肯定しようとするものであった。

「東京都平和記念館」構想が「東京都平和祈念館」構想に変化

 このように大きな戦争犯罪であった東京大空襲は、占領軍の検閲によって報道できなかった。独立後も、東京大空襲のことを新聞は書かなかった。長い間、東京大空襲のことを日本人は忘れさせられてきた。

 だが、昭和54(1979)年、永六輔、早乙女勝元ら12人の文化人・芸能人が、「空襲・戦災記念館を東京に設置することでの公開要請書」を都知事候補に提出した。平和資料館に関する議論がスタートする。平和資料館の構想をめぐる経緯は、第三章後半と第四章を読むと理解できる。そして、東京大空襲を容認する平和祈念館構想に反対する活動は第四章に書かれている。

 本書の年表により経緯をたどると、平成2(1990)年、310日を「東京都平和の日」と定める東京都条例が制定された。平成4(1992)年には、鈴木俊一都知事が「東京都平和記念館基本構想懇談会」(永井道雄元文部大臣が座長)を組織した。平成5年6月には、この懇談会が、加害の面からも取り上げてくれ、という報告書を提出したという。この基本構想懇談会の下には、「基本計画に関する調査委員会」がつくられたが、この委員会で、同年10月、名称が「平和記念館」から「平和祈念館」に変更された。

 一旦、平和祈念館構想は財政難から棚上げ状態になるが、平成7(1995)年に青島幸男都知事が生まれると、平和祈念館計画が復活し、平成8(1996)5月から、青島都知事の私的諮問機関「平和祈念館(仮称)建設委員会」が発足する。この委員会で、《東京大空襲は日本の侵略戦争・戦争犯罪に対する当然の報いである》という反日コンセプトの平和祈念館建設計画が固められていくのである。

密室行政に基づく平和祈念館建設計画の推進

 平和祈念館建設計画が作られていく経緯を見ると、何よりも密室審議又は密室行政で事が進められていたことに気付く。平成9(1997)年都議会議員になった土屋氏は、「平和祈念館」の建設というものに気付き、文化施設部に資料を請求したが、文化施設部長はA41枚の説明書を持って来ただけであった。その時、部長は「まあ、年内決定でしょうね」「先生がいくら反対してもできてしまいます」と述べたと言う。

 説明書に「軍事都市東京」とあったので、土屋氏が「計画書はこれ一枚ですか」と尋ねると、部長は「東京都平和祈念館(仮称)展示基本設計概要()」を持ってきた。その際、土屋氏は、「この質問はしない方が先生の為ですよ」、「西村眞吾先生のようになりますよ」と言われたと言う。脅しなのかと思われる発言である。

 この「概要()」を見ると、東京大空襲に関する展示は7分の1しかなかった。土屋氏は驚き、同年12月、都議会の文教委員会で平和祈念館建設計画について質問し、委員会でこの問題について集中審議が行われた。その結果、翌平成103月、平成10年度予算案可決の際に、「建設に当たっては、展示内容などについて、都議会の合意を得た上で実施すること」と付帯決議がつけられた。113月にも11年度予算案可決の際に同じ付帯決議が付けられた。そして、都は平成13年度の開館を断念したのである。

 本来ならば文教委員会で議論すべき事案であるが、都はわざわざ知事の私的諮問機関として建設委員会を作り上げて密室行政で事を決しようとした。土屋氏が調べ出しても資料を出し惜しみし、土屋氏を「この質問はしない方が先生の為ですよ」とか言って黙らせようとした。黙らせることに失敗して都議会の文教委員会で問題にされた結果、都は平和祈念館建設計画を断念したわけである。

公募委員に左翼活動家を集める

 反日政策を進めていく時に常にみられることであるが、密室行政で、世の中にどころか、議会にさえも知られないうちに事を決めようとしていたことに気付く。更には、同じく反日政策を推進する場合の常套手段である公募委員の活用もしている。建設委員会における公募委員の募集は「広報東京都」というタブロイド判の広報紙で行われたが、わずか11行の広告、募集期間はわずか2週間であった。募集しているとの情報は青島知事に近い左翼界隈にだけ届くことになり、5名の公募委員は共産党系や社民党系の活動家で占められていた。それゆえ、建設委員会では彼らは「侵略戦争」といい、「加害」を言い、東京大空襲容認史観の平和祈念館建設構想に積極的に賛成している

 以上、簡単に本書を紹介してきたが、東京大空襲及び平和資料館問題に関心のある方は、是非読まれたい