kokutai「日本への回帰」「揺るぎなき国体」
【日本への回帰】 追悼・四宮正貴氏 荒岩宏奨(展転社代表取締役)
四月六日午後、四宮正貴さんの訃報が入った。四宮さんとはその一週間前にお会いしたばかりで、そのときは元気そうだったので、訃報は信じられなかった。その後、四日の午後に脳虚血症疾患で逝去したとの続報が入った。
三月三十一日、私は永田町で開催された会合に出席した。四宮さんもその会合に出席しており、特段変わった様子は見られなかった。会合終に会議室を出て、廊下で「お疲れさまでした」と挨拶をすると、四宮さんからはいつものように「どうもご苦労さまでございました」と返事があった。これが四宮さんとの最後の会話となった。
四宮さんとの出会いがいつだったのか、覚えていない。初めてお見かけしたのは、どこかの勉強会だったのではないかと思う。
親しく交流するようになったのは平成十六年十一月からである。当時、正気塾の事務所を「九段下沙龍(サロン)」と名づけ、月に一回、会合を開催することになった。その会合も九段下沙龍と呼んでいた。私はその九段下沙龍の連絡役となったので、同人たちの連絡先を聞いて回った。多分、そのときに連絡先を聞いたのが初めての会話だろう。また、四宮さんはこの九段下沙龍に毎回出席していたので、月に一度はお会いしていた。
毎年、神宮参拝禊会が伊勢神宮の五十鈴川で禊を行っている。前日から神宮会館に一泊して翌朝に禊を行うのだが、前日の夜には禊の講習とともに勉強会も開催していた。平成十七年のその勉強会の講師が四宮さんだった。四宮さんは、民族派陣営の講演会や勉強会で講師を務めることも多く、民族派きっての博識者であった。
また、四宮さんは数々の講演会や勉強会にも積極的に出席していて、講師の話を聞きながらノートにさらさらとペンを走らせ、メモをとる姿は印象的であった。いつだったろうか、勉強会が終わったあとにノートの忘れ物があった。さらさらとペンを走らせた速記のような字だったので、読むことができず何が書かれているのかはよくわからなかったのだが、四宮さんの字だということはすぐにわかった。そこで、四宮さんに電話をしてノートを忘れていないか訊ねて確認してみると、たしかに忘れたということなので、そのノートを届けた覚えがある。
四宮さんは万葉集の研究家としても知られた。萬葉古代史研究會を開催し、講師をしておられた。私も出席したことがある。また、四宮さんは自分自身もよく和歌を詠まれていた。四宮さんが発行する「政治文化情報」には四宮さんが詠まれた和歌も掲載されていた。万葉集研究家の四宮さんのことだから万葉ぶりの和歌を詠むのかと思いきや、結構現代的な感覚で、口語に近い和歌も多かったので、私は意外で興味深く読んでいた。
そして、国文学にも造詣が深かった。私が日本浪曼派の保田與重郎に傾倒していることを知ると、四宮さんは「あなたは保田與重郎が好きなんですか。実は私は中河與一先生に教えをうけたんです」と言った。中河與一も日本浪曼派だからである。四宮さんはたちばな出版が発行する『伝統と革新』の責任編集者でもあり、私も二回ほどご依頼いただき、拙稿を掲載していただいた。
最近はお会いしても挨拶を交わす程度で、ゆっくりと話す機会がなかったことが悔やまれる。今は謹んでみたまの安かならんことを衷心よりお祈り申し上げる。