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【生誕100年の元陸軍大尉 奥本 實の波乱の生涯‼️】 〜 軍隊は運隊‼️ 赴任直後の初陣で九死に一生⁉️〜 奥本康大(空の神兵顕彰会)

9年前、父は91歳で旅立ちました。
生きていれば今日で100歳を迎えました。
 
父ほど数奇な運命を辿った人間は、数少ないと思います。
 
農家の7人兄弟の末っ子に生まれました。
兄弟の中で、ただ一人中学校に進学させて貰えたのは、常に級長を務めたこともあり、学校の先生が進学を進めてくれたと聞いています。
 
しかし、貧しい農家では上級学校に進むのは考えられず、学費の要らない陸軍士官学校に進んだのも無理はありません。
 
父は絵を描くのが好きで美術学校に行きたかったようですが、そんな環境にはなく軍人を目指したのです。
 
陸軍士官学校を卒業して最初の赴任地は中国大陸‼️
 
父の手記には、着任早々、中国内陸部の沙市の李家阜の警備にあたっていたところ、父の中隊は3倍くらいの敵兵に包囲され、これを突破し撃退せしめたとあります。これが初陣でした。
 
この戦闘で、敵兵を数名を射殺しましたが、父の部隊は、被害なしだったそうです。
 
その戦鬪で、父は鉄兜に銃弾を受けましたが、下の写真のとおり、鉄兜は貫通せずに助かったとあります。
 
また3センチほど下であれば即死‼️だと思われますが、運の強いことを物語っています。
 
これ以降も運の強さは続くのです。
 
落下傘部隊に志願し訓練中であったのですが、パレンバン奇襲作戦に向かった挺進第一連隊が、船火事を起こし沈没、将兵も装備も海中に投げ出されるという事故が起きました。
 
この代替部隊として練習生が集められて急遽、挺進第二連隊が編成され、パレンバンに向かい、世界で稀な大戦果を挙げることに繋がったのです。
 
こんな神憑り的なこともあるのです‼️
 
このパレンバン作戦において父は殊勲甲の大手柄をあげたのですが、その武勲が昭和天皇に伝えられ、陸軍中尉としては異例中の異例である、宮中に召され、単独拝謁を賜ったのです。
 
こんな名誉なことはないのですが、一介の中尉が召されたのは、大東亜戦争の大転換となったパレンバン奇襲作戦の成功によるものです。
 
開戦当初、石油は1年程度で枯渇するのが、パレンバン奇襲作戦により、3年8カ月も戦うことに繋がったのです。
 
また日本軍がアメリカはじめ連合国が震撼させる戦いをしたことにより、日本軍とは二度と戦いたくないと言わしめしたのです。
パレンバン奇襲作戦が成功しなかったなら、1年程度でアメリカはじめ連合国に降伏し、日本は植民地となったか分割統治され今の日本は存在しなかった筈です。
 
また世界から今でも、植民地は無くならず、人種差別は未だに続いていたと思われます。
 
大東亜戦争の大きな転換期となったパレンバン作戦に従軍し、脹脛に貫通銃創を負いましたが、無事に帰還出来たのも、父の運の強さを物語っています。
 
今日は、一日父の遺した手記を整理しながら、父の偉業を偲びたいと思っています。