contribution寄稿・コラム
國體の断絶について 堀 芳康(國體護持研究家)
今の日本で感じる根本的な違和感というのは、國體の断絶からくるのではないかと思う。
そもそも國體は=国体であり、英語ではnationalityとなる。國體の體は、合体の體であり、物を集めて他のものと比較する時に使用される。しかし、今の日本人は、国家意識が希薄で、自己中心的であり、そもそも日本という国を理解していない人が多い。
今のような状況になる前の明治初期、福沢諭吉が「文明論之概略」の中で、国家が政府をつくるのは、政権を全うして國體を保つ為であり、その条件として、政府が自らを支配し、他の政府の制御を受るを好まず、禍福ともに自ら担当して独立する者をさしていた。また、その國體を保つ方法として、人民の智力を高めることであるとし、当時は、教育だけでなく、新聞や雑誌等のメディアにも国家主義的傾向があった。国家について語り、理解を深める上で識字率の高い国民に大きな役割を果たしていた。
この國體を保つ為の条件である対外的独立の基盤となる自衛権は、今の憲法下で、交戦権を否定したことで失われている。占領憲法の前文にある「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」したのであり、これは、非武装を宣言し、自衛権を放棄したのである。その為に、周辺国に媚びを売り、対米従属そのものの外交は、國體を失った事が顕著なのである。
我国の皇統は敗戦後も失われず今日に至っているが、天皇大権はなくなり、皇室の自主と自律も占領典範によって奪われ、家臣である国民が主権者となり、主君がその国民の総意に基づいて存在している。形は残っているが、中身は全く違うものになった。
明治の頃の日本人には、国家が大切であるという自覚があり、国家が泰平の時は個人の自由は膨張し、危うくなれば狭められるという認識があった。権利には義務がある事を常識として認識していた。戦後、占領憲法によって、徴兵制はなくなり、国家防衛の義務は失われたが、権利ばかりを主張する人達がいるのである。
國體の断絶は、敗戦によって起こった。国家というものは、その国民が、自らの国を愛し、その土地を大切に思い、その国の存続を願う事で存在している。その歴史に泥を塗った東京裁判。東京裁判とセットで國體を変更した占領憲法と占領典範。
これを取り戻す為には、戦後國體を断絶したものの無効を宣言してゆくしかない。
政治家と国民にその覚悟があるかどうかだ。