yukoku「憂国の風」
【追悼 古賀俊昭同志】 ~憂国運動に捧げた72年の生涯~ 玉川博己(三島由紀夫研究会代表幹事)
さる3月9日の未明私どもの長年の友人・同志であった東京都会議員の古賀俊昭氏が急逝されました。腹痛のため3月6日に入院され腹膜炎と診断され手術もされたのですが、薬石効なく72年の生涯を閉じられました。誠に断腸の思いであります。古賀俊昭氏は昭和22年10月生れ、熊本県の出身でありました。正に熱血の九州男児として育った古賀氏は昭和41年に大阪の近畿大学法学部に進みました。時あたかも東京の早稲田大学に始まった大学紛争の嵐は関西の諸大学にも燃え広がり、いずこのキャンパスもヘルメットにゲバ棒、鉄パイプ等で武装した左翼暴力集団が席巻するところとなりました。同年10月に民族派学生運動として創設された日本学生同盟(日学同)に加盟された古賀氏は、近畿大学において国防部を結成するとともに、関西の諸大学で同志学生を獲得し、古賀氏はやがて日本学生同盟関西総支部長として関西から九州にいたる民族派学生運動のリーダーとして活躍されました。当時そこに結集した愛国学生たちはその後地方自治体の議員や企業の経営者として社会の中核を担う人材として成長していきました。
昭和45年近畿大を卒業された古賀氏は上京されて日本学生同盟本部の専従職員として活動されましたが、やがて同年11月25日市ヶ谷台上にて憂国の自決を遂げられた三島由紀夫先生と森田必勝烈士の義挙とともに、その追悼顕彰活動に当られ、同年12月に行われた憂国忌の母体となった「三島由紀夫氏追悼の夕べ」を実行委員の一人として大成功に導かれ、翌年昭和46年2月三島由紀夫研究会の創設にも尽力されました。その頃に三島研第一期生として入会されたのが今の奥様でした。熱烈なロマンスの末お二人は結婚されましたが、結婚式は三島研の初代代表幹事をつとめられた故篠喜八郎先生が宮司をされていた東京・大谷口氷川神社で挙げられました。あの懐かしい「されどわれらが日々」の思い出が次第に遠くなってゆくのは寂しい限りです。
その後九州で代議士秘書をされたりした後、昭和56年に日野市市会議員に当選され、以後4期務めた後平成5年に東京都議会議員に日野市選挙区から当選。以降一時落選を経験しつつも平成9年以後6期連続当選。元来九州出身の古賀氏が日野市を地元として選んだのは、近藤勇、土方歳三ら新撰組を輩出した聖地に対する熱い思いでありました。この間一時日本新党に籍をおいたこともありましたが、近年は自民党東京都連の重鎮として重きをなしていました。しかし古賀氏の本領は教育問題や教科書問題、拉致被害者救出、「従軍慰安婦」問題など、日本の名誉を守り、左翼偏向教育から子供を守る活動でありました。そのため左翼・リベラル勢力からは「右翼」、「保守反動」、「ファシスト」等の罵詈雑言を浴びてきましたが、古賀氏は意に介しませんでした。創設以来ずっと三島由紀夫研究会の一員として憂国忌の運動に挺身されてこられた古賀氏は日本文化を愛する立場から、都議会における元号の使用と文書縦書きの原則を主張され、安易な横文字使用の風潮を批判されてきました。
私は日本学生同盟以来50年余の古賀氏との付き合いでしたが、今回突然好漢を失ったことに正に断腸の思いであります。願わくば、古賀俊昭氏が天上にありて三浦重周烈士らとともに我らの行く手を見守らんことを祈るものです。さらば同志古賀俊昭!安らかに眠りたまえ。
追伸:今般はご家族にご意向により家族葬のみが執り行われ、後日お別れの会が開かれるとのことです。