三年ほど前に私は中国の南京虐殺記念館に行きました。そのツアー会社が左翼系だったためか、反日左翼と思われる人達が多数参加していました。
ある時ツアーの中で「自分の親達から戦争の話を聞いたことがあるか。」という話題になったのですが、ほとんどの人は「聞いたことがない。」あるいは「叔父さんから話を聞いたが、戦争での手柄話ばかりだった。」との事でした。
自分の肉親から血の通った「歴史」が聞けなかったことは、大きな損失に思えます。その言葉は時として、子供に大きな影響を与えるからです。
そのツアーの参加者は日本人ばかりでしたが、通訳は日本語の堪能な中国人でした。そして「日本軍は悪くてね。」と、最初につけてから歴史の説明をするのでした。
私も実際に見て南京虐殺記念館の展示物に直接的な証拠は無いと思えました。日本軍が悪いことをしたと、中国で洗脳されて帰国した元日本兵によって伝えられましたが、それも事実ではないと、論破されています。
最大の問題は「日本は悪いことをした。」と信じ込んでいる日本人がいることです。一緒にツアーした人達もそうですが、日本の悪口を言われても真顔で聞いています。南京虐殺記念館も何の嫌悪感もなかったように見えました。
有名な話ですが、南京虐殺記念館は日本の社会党が資金を出して中国に作らせました。また、真偽は不明ですが、社会党が出した金額は三千万円で、中国側はハ百万円で完成させ、残りは山分けしたとか。事実なら酷い話です。社会党は祖国を貶める建物を作って儲けたことになります。それでも日本が悪いことをしたと信じている日本人は、そのことに対して非難さえしません。
私の父は昭和二十年四月という終戦間際に二十歳で入隊しました。甲種合格でした。中国戦線の満州国とソ連の境界線を警備していましたが、銃は四人に一丁しかありませんでした。銃も持っていない父はある時、ソ連の飛行機が機銃掃射してきて、麦畑に飛び込みました。その時の傷なのか、私が記憶する若い頃の父は、左頬、左腕、左わき腹に軍隊式の大きく塗った跡がありました。
またある時は、避難する途中に親とはぐれた12歳くらいの少年が警備中の父を見つけ「兵隊さん!」と駆け寄ってきました。けれど父は任務中の一兵卒です。「任務中だからな。」と、少年を助けることはできませんでした。そんな父は平成20年に亡くなるまで時々その少年を思い出し「どうしたろう。」と呟いていました。
父達は終戦も知らされずソ満国境を警備していたハ月十六日、ソ連軍によって武装解除され、シベリアへ送られたのです。
日本が負けたとはいえ「終戦になったのになぜ帰国できないのか。」と不思議に思う父達に「お前達は天皇に捨てられたんだ!」と、ソ連軍は言ったそうです。もともと徴兵された時から生きて帰れるとは思っていなかった父達ですが、この言葉は何より心をえぐりました。ソ連兵はそれを分かっていて、こんな嘘を言ったのでしょう。
今になると敗戦後、昭和天皇がどんなにご苦労されて、国民の為にどんなに頑張られたか分かりますが、当時の父達には知るすべもありませんでした。
私は日本が好きです。日本の侵略戦争だったと自虐史観を刷り込まれていた頃でも、私は日本が好きでした。それは父の影響だと思います。父は自分で国旗を買ってきて、祝日になると玄関横に掲揚していました。そんな父の想いは知らないうちに私に伝わっていたと思います。
先日、特攻慰霊祭でお会いした九十歳になる予科練の方が言っていました。「私達は全員が国を命がけで守ろうとしていた。君達にそれができるか。」
重い言葉です。