contribution寄稿・コラム

仁徳天皇の仁政の故事を今に生かし、 文武両道、即ち、教育と国防の充実増強に進むべき時だ 西村眞悟

第十六代仁徳天皇の御陵の側で育ち、今も側に住む者である西村から、忘れてはならない我が国の仁政の故事とその思想の伝統を明確にしたい。

この七月、仁徳天皇の御陵やその父君である応神天皇の御陵をはじめ大阪南部の三国が丘、百舌鳥(もず)そして羽曳野・古市丘陵にある四世紀から五世紀に造営された古墳群が、ユネスコの世界文化遺産に登録された。これを喜ぶ者達の軽薄さは、この古墳群を遺した我が日本という国家の黎明期の姿に思いをいたすことなく、ただ「観光収入増大」を歓迎しているだけであることだ。観光収入ではなく、太古の昔の我が国の黎明期において、世界の政治思想史上空前の宣言が仁徳天皇によって為されたことこそ重要なことだ。しかも、仁徳天皇によって鮮明にされたこの思想は、現在の我が国の為政者が思い起こして最も拳々服膺しなければならないことなのだ。

堺市の仁徳天皇御陵から北に約十キロの地点に、高津の丘がある。ある時、仁徳天皇はこの丘に登られて、遙かに広がる民の家々を眺められた。そして、民の竈(かまど)から煙が昇っていないのを確認して愁いを深め、次の詔を発せられた。「百姓(おおみたから)既に貧しく家に炊く者無きか・・・、今より以後三年に至るまで課役をやめて百姓の苦しみを息(いこ)へよ」。そして、三年後、天皇は、民の竈から煙が昇るのを眺められ、「朕既に富めり、憂いなし」と喜ばれた。

しかし、喜ぶ天皇に后(きさき)が問われた。「宮廷には費用がなく、貴方はボロボロの着物を着て、私たちは雨が漏れ風が吹き抜ける廃屋に住んでいるのに、何故、富めりと喜ばれるのですか」と。天皇は次のように答えられた。「天が君を立てるのは民のためなのだ。そうであるから君である私は、民をもって本としなければならない。古の聖王は一人でも飢え寒さに凍える者あらば我が身を責められた。今、民が貧しいなら自分も貧しい。民が富めば我が身も富んでいる。民が富んで君が貧しいことは未だかつてないのだよ。」

頼山陽の漢詩は、簡潔に次の通り書く。「煙未だ浮かばず。天皇愁う。煙已に起こる。天皇喜ぶ。陋屋弊衣赤子を富ましむ。子富みて父貧しき此の理無し。八洲に縷縷(るる)たり百万の煙。皇統を簇擁(そうよう)して長く天に接す。」

その上で、仁徳天皇は、「難波の堀江を開鑿し給ふの詔」を発せられて、大阪平野の大規模な灌漑治水工事を実施され、現在に至る肥沃な大阪平野を造成された。

以上が、古代における仁徳天皇の仁政と言われる施策である。即ち、これは減税によって国民の可処分所得を増大させるとともに、公共投資(大土木工事)を実施することによって総需要を増大させ豊かな国家と社会を出現させた古代のケインズ革命と言うべきだ。しかも、この仁政の根底にある統治思想こそ、世界政治思想史のなかの空前のものと言うべきである。これは、アメリカの独立宣言(1776年)やフランスの人権宣言(1789年)の一千数百年を超える遙か前に為された「君主よりも人民が主である」という統治思想の表明である。つまり、その時、国家として存在していない現在のアメリカやフランスの統治理念は、彼らの国が建国される遙か以前に、我が日本の仁徳天皇によって宣言されていたのだ。アメリカやフランスが、自分たちの独立宣言や人権宣言が総ての先駆けだと思い込んでいるので言っておく。そして、仁徳天皇のこの統治理念は、途切れること無く歴代天皇に受け継がれ、明治、大正、昭和そして上皇陛下から第百二十六代の今上陛下に続いている。

同時に、天皇以外の統治者においてこの思想を体現した者として直ちに思い浮かぶのは、江戸中期の米沢藩の藩政改革者上杉鷹山、江戸末期から明治維新期の備中松山藩の改革者山田方谷と薩摩の西郷隆盛だ。

上杉鷹山は、「伝国の辞」を記して次の藩主に与えた。それには「国家国民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候」とある。これ、仁徳天皇の詔そのものである。

幕末の山田方谷は、絶望的な赤字に陥っている藩財政の立て直しに際し、次の二つの原則を明らかにした。「事の外に立ちて事の内に屈せず」、「義を明らかにして利を計らず」。そして、備中松山藩の教育の充実を図り、農民兵を組織して洋式銃陣訓練を開始した。この農民兵は藩の武士で組織される正規兵の二倍の規模であった。そして実に、この教育と軍備の増強と同時に藩財政再建に成功したのである。後に西にある長州藩の久坂玄瑞が山田方谷の直接指揮する農民兵の猛烈な洋式銃陣訓練を見学して腰を抜かし、帰藩して高杉晋作にこれを伝え、五年後に長州の奇兵隊が生まれる。後の戊辰の役で長州藩が備中松山藩に攻め込まなかったのは、山田方谷が創設して指揮する洋式銃で武装した奇兵隊の手本となった農民兵を恐れたからだ。備中松山城が今も無傷で残るのは山田方谷と農民兵のお陰である。

そして、西郷隆盛は、「南洲翁遺訓」にその思想を留めた。そのなかで、彼も仁徳天皇と同じ事を言っている。「租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也。」と。そして、「国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確守し、上を損じ下を虐げぬもの也。」という。つまり、消費税率を次々上げるなと言っているのだ。しかし、「道の明らかならざる世は」、「必ず曲知小慧の俗吏を用い、巧みに収斂して一時の欠乏に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て過酷に民を虐げる」という。まさに、是、現在の消費税率引き上げに伴うキャッシュレスによるポイント還元制とか等々は、「曲知小慧の俗吏」のややこしい悪知恵ではないか。税制は単純明快を旨とすべきではないのか。

以上、仁徳天皇以来の仁政の伝統を俯瞰したうえで、現在の消費税率引き上げを見れば、国家の将来、まことに危ういと言わざるを得ない。そもそも、橋本内閣の消費税率引き上げ以来の実体験で明らかなことは、消費税率引き上げによって「消費税収」はいささか増加するが、「国民の全体としての総消費額」は減少するということだ。つまり、消費税率引き上げは、総需要を減少させ、当然、全体としての総税収も減少させてきたのだ。これが、我が国がいつまで経っても、デフレから脱却できない理由だ。よって、この度の消費税率引き上げは、「曲知小慧の俗吏」を「理財に長ぜる良臣」として用いて行われる愚挙である。

そこで、最後に、百五十年前の山田方谷と西郷隆盛が、現在に立てば何と言うだろうかを考える。まず彼らは、現在を、「義を明らかにせず、利を計るだけの時代」と見るだろう。その上で、先ず、教育を改革し、軍備を増強すべしと言う。即ち、長年にわたるコミンテルン・日教組の悪弊と害毒から教育を解放して「誇りある日本人」を育成する教育を建設しつつ、同時に、「誇りある日本人」によって担われる強力な国防力を建設することが国家存立の大道であり「義」であると、彼らは言う。

文武は両道である、即ち、教育と国防は不可分である。今こそ、「利」を計らず、文武両道の充実に励まねばならない。領土を奪われ、国民を奪われたままの国に未来はないからである。