contribution寄稿・コラム

【原爆慰霊碑の碑文について】 倉林宏平(日刊廣島 編集部主幹)

まもなく8月6日です。
この数年来、少しずつ改訂したものを
記述しております

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この碑文では
死没者は安らかに眠れません。

書き換えを求める世論形成に
皆様のご尽力を願います。

74回目の広島原爆忌を前に

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安らかに眠ってください
過ちは繰返しませぬから

原爆慰霊碑の碑文についてはこれまで、その策定段階から泥沼の論争が続いてきました。広島市は碑文への抗議に対し「主語はWEで、人類としての誓いである」との公式見解を出し、論争を抑え込み「今日では、碑文に対する疑問の声はほとんど聞かれない」とするコメントをHPに掲載しています。

これは、虚偽であります。

依然として、碑文に対する根強い怒りの声が多く存在することは厳然たる事実であり、慰霊碑の毀損事件も断続的に起きています。

【碑文の中身で論争せずに書き換えを】

慰霊碑とは言うまでもなく、死没者の霊を慰めるためのものであり、多大な犠牲者の眠る原爆慰霊碑であれば、全ての死没者が違和感なく安らぎを感じる(であろうと思われる)文言でなければなりません。

今の碑文がそうでないことは明らかです。

碑文を読んだ現世の方々の相当な割合が、碑文を「おかしい」と感じる。だとすれば、犠牲になられた御霊の多くも、同じ思いを持たれることでしょう。そんな碑文では、安らかに眠れるはずがありません。

この1点をもって、今の碑文が碑文として相応しくないことの主張は充分に成立します。

私は、これまでのように碑文の中身について泥沼の論争をしなくとも、碑文の書き換えは可能であると考えています。

むしろ、中身の論争をしないことこそが、書き換えを実現するための重要な方策となるでしょう。

中身の議論になってしまえば、この碑文を守ろうとする勢力は絶対に引きません。それ以前の上流域で決着をつけることが肝要なのです。

今の碑文が、碑文として適切なのか、あるいは許せないものなのか。その判断に、碑文の中身についての議論は不要です。前述の通り、明らかに碑文としては不適格です。

広島市や碑文の賛成勢力は、今を生きて碑文に反対する者に対しては、こねくりまわした説明を押しつけて黙らせてきました。しかし、死没者にも、その独善的な説明をゴリ押しし、ねじ伏せようというのでしょうか? 

安らかに眠るどころの話ではなく、死没者への冒涜です。

【碑文の書き換えに向けて】

過去にも、書き換えを求める議論がありながら、左派勢力の猛烈な抵抗により、未だ書き換えが正式な俎上に乗ったことはありません。書き換えを求める政治家にも相当な圧力があったとみられ、今や完全に及び腰です。

前述の通り、中身の議論になってしまえば、左派は死に物狂いで抵抗するでしょう。しかし、それをやる必要はないのです。 

書き換えに向けての要点は

「過ち…」以下の考え方が存在することを否定はしない、ただし碑文上に展開すべき話ではない、他の場所でいくらでも主張していただければ結構だ、というスタンスで主張を統一することです。

【つまりは、慰霊とは違う目的を持つ慰霊碑だった】

さて、書き換えには「碑文そのものの議論は不要」と述べましたが、書き換えへの道筋とは別として、まぁ一応、中身についても触れておきます。

この原爆慰霊碑は、慰霊とは名ばかりで、死没者を慰めることなど実は二の次なのです。

「過ちは繰返しませぬから」は、いわばひとつの平和観であり、特定の主張であり、思想であるとも言えます。その思想に慰霊碑が利用されているわけです。

平和や核兵器廃絶は、大多数の人類が切望するものではあっても、平和の概念に規定はなく、平和観はそれぞれであり、その主張には思想が色濃く反映されやすいものです。

広島市は「碑文の趣旨は、原爆の犠牲者は、単に一国・一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならないというものです。つまり、碑文の中の『過ち』とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています」として碑文への理解を求めています。

それはあくまでも一つの考え方であり、死没者も含めて決して皆が賛同できるものではない。慰霊が目的の碑文上で展開するべき話ではないのです。

しかし、それをどうしても碑文の中に織り込みたかった。慰霊よりも何よりも

「過ちは繰り返しませぬから」

この部分こそを主張したくて仕方がなかったわけです。

慰霊とは別の動機がなければ、こんな碑文は発想しないでしょう。

そして多くの方が碑文を読んで直感的に「おかしい」と感じるのは、慰霊碑でありながら、慰霊以外の特定思想的な主張が強く臭うからでしょう。

そしてこの碑文は、広島市の説明の域など遥かに超えて、自虐史観の醸成に役立てられてきました。教育関係者らが指摘している通り、左派系の教組もこれを大いに活用し、児童生徒に特定の思想を塗り込めてきたわけです。

そうであればこそ、書き換えに向けては、最も有効で能率的な道筋を見定め(ここが一番重要)、少しでも早く実現しなければなりません。

過ちを繰り返しませんの主語は人類ということになっているようですが 

◆原爆の犠牲者も、多くの広島市民も日本国民も無辜の民であり、何も過ってなどいません。

◆そして、狂気を持って原爆を投下した張本人が過ちを認めていないのですから、この碑文は欺瞞に満ちているとしか言いようがありません。

さらに私は、原爆投下を「過ち」などという軽々しい言葉で表現していることに憤りを覚えます。

確信を持って実行された、人体実験をも兼ねた未曾有の大虐殺行為であり、極悪非道極まる戦争犯罪だったのです。