tajikarao「タジカラオの独り言」

【タカラジオの独り言】 ―薩摩の地に思う― 野伏翔

 政府拉致問題啓発演劇「めぐみへの誓いー奪還―」の公演で鹿児島県鹿屋(かのや)市に行ってきた。私にとって鹿児島は実に42年ぶりの再訪であった。
 
 23歳の時鹿児島を舞台にした演劇の制作に関わった。松竹演劇部出身のあるフリープロデュ―サーが初の日韓合作演劇を作り、東京、鹿児島、大阪を巡演した。物語は明治初期の鹿児島を舞台にしたもので、岩田玲文が朝鮮陶工の末裔を題材にして書いた「異郷に死す」というタイトルの芝居だった。薩摩焼に限らず有田焼、唐津焼など、日本の名だたる焼き物は秀吉の朝鮮出兵の際九州の大名たちが連れてきた朝鮮陶工たちの手によって発展し完成された。司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」にもあるように、彼らの歴史は日本に強制連行されて来た可愛そうな人たちの物語として語られることが多い。しかし最近の研究では大分違った見解が出てきている。文禄、慶弔の役に従事した戦国大名たちの間では千利休に代表される茶の湯が大流行していて、こぞって良い茶器を求めていた。当然その茶器を作る陶工は尊重された。一方朝鮮における陶工の地位は極めて低く、一握りの両班(ヤンバン)からは人間扱いをされない白丁(ペクチョン)という奴隷の身分であった。日本の大名たちは朝鮮陶工たちを厚遇し、陶工たちは競って日本の大名の下に集まり日本に渡った。という説が有力である。事の真偽を断定はしないが、薩摩焼の陶工たちが薩摩藩士として厚遇されていたことは事実である。因みに大東亜戦争当時の外務大臣でありA級戦犯となった東郷茂徳(しげのり)も、この地の朝鮮陶工の末裔である。
 
芝居のストーリーは薩摩藩士であり西郷隆盛を尊敬するボッケモンの青二歳(アオニセ)朴何某が、征韓論を主張する西郷隆盛に従うべきか否かと悩むが、結局は西南戦争に馳せ参じ西郷に殉じて壮絶な戦死を遂げるまでを描いた時代劇で、本郷幸次郎、藤田弓子、上原ゆかり、内田朝雄他、と当時としてはなかなか豪華な座組みだった。加えて韓国から、その頃日本のテレビで放映された松平健主演の「人間の条件」に出演して、その美貌が評判であった張美和(チャンミーファー)ともう一人の男優、そして韓国映画監督協会会長の朴さんが加わった。この朴会長は日本語が堪能でおおらかな性格の方であった。私の「韓国ではどうして日本映画やテレビを放送しないのか?」という問いに「そんなことをしたら韓国人は日本のものしか見なくなる。特に日本の時代劇、銭形平次や水戸黄門などを流したら、韓国のドラマは全部つぶれてしまうよ」という答えだった。1970年代、朴正熙大統領の時代は、まだまだ戦前の日本との時代を懐かしむ人たちが多かったのである。その後の猛烈な反日教育が、今や日韓間の不信を修復不可能と思わせるまでにしてしまった。教育とは実に恐ろしいものである。
 
私の仕事は鹿児島公演に先立ってのチケット販売であった。東京の鹿児島県人会から紹介を受け、鹿児島県各地の有力者や企業、警察学校、自衛隊などに団体券を営業に行くわけであるが、これが中々うまくいかない。鹿児島市内にあるデパートとタイアップして薩摩焼の展示会を行った時だけは、割引券が結構売れたと記憶している。苗代川(いなしろがわ)の陶工、第十四代沈寿官(ちんじゅかん)さんにはお世話になった。色々な人を紹介してもらい、天文館で随分とご馳走にもなった。鹿児島ではクラブでも焼酎が出ることをこの時初めて知った。芝居の一座が到着した時には苗代川の広大な屋敷に主だったスタッフキャストが招かれた。八月の鹿児島であったにもかかわらず、庭に面して開け放たれた部屋には爽やかな夏風が入り、クーラーなど必要なかった。庭の蝉しぐれを聞きながらソーメンと焼酎を頂いた。しかし短冊が配られ毛筆で一句所望と言う段になった時には参った。どう誤魔化したものか今では覚えていないが、沈さんは、「高麗陶工の末裔沈寿官は薩摩藩士である。君たち以上に日本の教養もあるサムライであるぞ!」と、主張したかったのだろう。
 
さて今回は同じ鹿児島でも鹿屋市に来ている。鹿児島空港から大隅半島をバスで約二時間、右手に桜島を見て高速道路を南下し鹿屋の町に着いた。昔は基地の町として栄えていたらしいが、今は殆どシャッター街と化している。時間があったので鹿屋航空基地資料館に劇団員たちを連れて行ってきた。特攻基地では陸軍の知覧基地が有名だが鹿屋は海軍の基地である。以前「同期の桜」と言う演劇を公演したことがある。この芝居は海軍十四期飛行予備学際たちの学徒動員から特攻出撃までを描いたもので、靖国神社初の野外演劇公演になった作品である。この学徒動員で士官となり特攻散華した方の多くが鹿屋基地から沖縄を守るために飛び立っていった。
 
展示物の中に「私たちは一応学鷲です。この戦争に簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし講和の条件を少しでも有利なものとするために征くのです・・・」と言った内容の遺書があった。
 
この人たちは今を生きる私たちのために、かけがえのない命を投げ捨ててくれた。この人たちが命に代えて守ろうとした日本とは、何百人もの同胞を外国に拉致されたまま指をくわえて見ているような国では、決して無かったはずだ。