contribution寄稿・コラム

【呉吉男事件と特定失踪者生島さん】 三浦小太郎(評論家)

呉吉男は、1942年韓国生まれの経済学者である。1970年西ドイツへ留学し、経済学を学んだが、当時の韓国政府への反発から1980年西ドイツにドイツに亡命、さらに、1985年、ドイツで結婚した韓国人看護婦の妻と、二人の娘を連れて北朝鮮に向かった。
 
呉吉男が北朝鮮に行くことを決意したのは、学者として成功できず、西ドイツでの生活の行き詰まりの中、北朝鮮に行くことを工作員と思しき人物から勧められたからだ。「本だけ持ってくればいい、呉博士を北朝鮮は大事に遇し、経済学の勉強で祖国に尽くせばいい」もともと生活能力に乏しく、かつ韓国への反感が強かった呉氏にとって、勉強をしながら自由に生きていけるという誘惑は大きかったことは理解できる。そして、著名な現代音楽の作曲家であり、かつ明確に北朝鮮支持者であったユン・イサンの働き掛けも大きかった。
 
しかし、妻は猛然と反対した
「あなた気でも狂ったの?あそこがどういう国だと思っているの?全体主義で自由のかけらもない国よ。貧しいのは耐えられるけど、画一化した社会では住めないわ。子供のことも考えてよ。」
「女のくせに、何もわかりもしないで頭ごなしにできないとは何事だい。それにユン・イサン先生のように偉い人が、俺に嘘つくわけがないだろう。」
「じゃ、こうしましょう。まずあなたが先に行きなさいよ。そして本当にそこであなたの学問を生かせるか、様子を見てきてよ。それから家族が行っても遅くはないでしょう。」
 
しかし、当時の呉氏は、働きすぎて体が悪くなった妻を、北朝鮮で楽をさせたい、病気を(無料で)直してやりたいという気持ちに捕らわれていた。
「おれはいい地位についてお前を助けたいんだ。それに社会主義は俺が理想とするイデオロギーだ。なあ、もう一度考え直してくれないか」
 
 結局、妻、淑子は夫に押し切られて、娘とともに北朝鮮に向かうことを決意。1985年11月、西ドイツからベルリンへ、そして東ベルリンから北朝鮮へ。東西ベルリンは冷戦時代、まさに南北の諜報戦の前線でもあった。
  
北朝鮮で、呉氏は経済学の研究などはできなかった。彼に与えられた「仕事」は、「救国の声」という偽装放送を行うことだった。これは、毎日13分、北朝鮮から呉氏が、自分は韓国内で活動する民主活動家であるふりをして、韓国政治の批判、日米への従属などを虚偽を混ぜながら放送することだった。南と北では同じハングルでも非常に発音が違うため、韓国からの放送と偽装するには、韓国からの亡命者、(そして拉致被害者)を使う必要があったのだ。
 
 1986年10月、呉氏は、放送だけではなく、直接北朝鮮の工作活動に協力し、海外でも活動してほしいと命じられる。妻の淑子は、これを引き受けて海外に出れば、逆に夫が北朝鮮から逃れる可能性も出てくるのではないかと、気丈に次のように語った。
 
「外に出たら、何としても私たちを助けだして。もしそれができないなら、交通事故でみんな死んでしまったものと考えて。(娘の)恵媛と圭媛はまだ小さいから、この社会に何とか適応することができるはず。あなたが私のいうことを聞かないで、私たちをこの国に連れてきたことは、もう仕方ないにしても、工作員になってほかの人をここに引っ張り込むようなことだけはやめて。だからお願い、もう一度言います。ここには帰ってこないで。私たちは死んでも構わない、どうか、汚らわしいことはしないで。」
 
1986年11月12日、呉吉男は工作活動のために北朝鮮を旅立つ。もちろん監視役がついていた。旅立つ前に何度も見せられた宣伝映画には、金日成のためならば死を覚悟せよという、まるでイスラムテロリズムの教育映画だった。旅立った先は東ベルリン、しかし、ここで呉は、隠し持っていたメモを、西ドイツに入るために立ち寄ったコペンハーゲンの空港で係員に手渡すことに成功する。そこにはこのパスポートは北製の偽造であること、自分は亡命の意思があることが書かれていた。
 
 しかし、かって彼を北に派遣したユンイサンら、西ドイツ在住の韓国「知識人・民主運動家」らは、彼の亡命を批判し、しかも北に戻るよう勧めている。北に残された家族を助けるため、影響力のある知識人、ユンイサンにすがった呉は、次のような冷酷な言葉を浴びせられた。
 
「共和国では、君の家族を返すと、そのまま南朝鮮に行ってしまうのではないかと心配している。それに君は、七宝山連絡所の秘密を知っている(三浦注:呉氏がいた北朝鮮の対南工作機関、韓国向けの偽放送を行っていた)。だから家族を人質としてとらまえておく以外に方法はないと考えているようだ。共和国では、君の罪を寛容を持って許す意向があると聞いた、家族のことを思って、もう一度平壌に帰りなさい」
 
91年、ユンイサンは、北にいる妻と娘の録音テープを聞かせ、北朝鮮に帰るよう、脅迫まがいの行動すら行った。呉氏は、アムネステイや国際赤十字などに、妻と娘の安否調査や救出を訴えているが、妻子は政治犯収容所に入れられ、今もその安否は不明である。そしてこの呉吉男は、北朝鮮で、特定失踪者生島さんによく似た人物を見たと証言しているのだ。
 
 荒木和博氏が代表を務める特定失踪者問題調査会の「調査会NEWS 800](21.7.4)によれば、昭和47年11月1日渋谷区笹塚にて突然失踪した生島孝子らしき女性と会ったことがあると証言している。呉は北朝鮮在住時代、平壌駅と高麗ホテルの間にあるアパートに居住しており、女性も同じアパートに暮らし日本語を教えていたという。しかし、日本政府が呉にこの証言についてきちんと聴き取りをし、調査しているという報告は未だない。
 
呉吉男は自らの判断の誤りで、妻子を北の収容所に送り込んでしまった。そのことの罪と責任はある。そして、彼を扇動しておきながら何の手も差し伸べないユン・イサンら「左派」「進歩派知識人」の罪も、そして、最後まで正義を貫き、同胞の韓国人を拉致する罪を夫が犯すくらいならば自分と娘が収容所に送られる覚悟で夫に亡命を勧めた呉の妻とその子供を助けようともしない韓国政府もまたあまりにも非情である。しかし、こうして彼によってもたらされた拉致日本人の情報を、全く生かそうとせず日本政府には、果たして何の責任もないのだろうか。今、あまり話題にならぬ呉吉男事件を、こうして再度、日朝交渉が始まる可能性が見えてきた時期に再提起しておきたい。