contribution寄稿・コラム
【今更聞けない皇室の基礎知識】 「皇位継承者、まさかの激減」 村田春樹
前号で述べた通り、昭和二二年には一一宮家(すべて伏見宮邦家親王の子孫)五一名が臣籍降下した。世襲四宮家のうち桂宮家有栖川両家はすでに嗣子なく絶家しており、ここに昭和の時点での宗家である閑院宮家以外の皇族はすべて亡んだのである。しかしその時点で宗家の皇族男子は秩父宮雍仁親王以下六人おり、さら昭和四〇年までに、宜仁親王(桂宮)、憲仁親王(高円宮)、浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王と順調にお生まれになり、皇位継承に些かの不安もなかったことは前号に記したとおりである。
好事、魔多し。その後の皇族の御生誕を見てみよう。
昭和四四年 清子内親王
五六年 彬子女王
五八年 瑤子女王
六一年 承子女王
六三年 典子女王
平成二年 絢子女王
三年 眞子内親王
六年 佳子内親王
一三年 愛子内親王
連続して九人!見事に姫宮が続いたのである。
そして平成一八年 悠仁親王御降誕。まさに神風であった。
現時点での皇位継承権者は
皇太子徳仁親王
秋篠宮文仁親王
常陸宮正仁親王
秋篠宮家の悠仁親王の四人だけになってしまった。
一方臣籍降下後の旧宮家に目を転じよう。
現在既に左の旧宮家五家は絶家となっている。
賀陽宮家邦壽王、四世目であった。昭和六一年に歿。嗣子なく絶家。御殿の跡地は千鳥ヶ淵戦歿者墓苑となっている。
山階宮家武彦王、四世目であった。昭和六二年に歿。嗣子なく絶家。御殿は千代田区富士見一丁目衆議院議員九段宿舎だったが、最近「ふじみこども広場」になっている。
梨本宮家守正王、二世目であった。昭和五一年に歿。女児のみ。御殿は現渋谷区渋谷一丁目のほぼ全域であったが、現在は美竹公園にその一部が残っているに過ぎない。
閑院宮家春仁王、二世目であった。昭和六三年に歿。嗣子なく絶家。永田町にあった御殿は現在衆参両院議長公邸になっている。
東伏見宮依仁親王、一世目であったが大正一一年に薨去しており、親王妃周子、昭和三〇年歿。嗣子なく絶家。御殿は現在常陸宮御殿となっている。
他方、現存している六つの旧宮家に目を転じよう。
久邇家 邦昭(王)昭和四年生まれ、四世目であり久邇宮家最後の王である。
子息二人(朝尊氏昭和三十四年生まれ。邦晴氏三十六年生まれ。)いるが五世目以降のため、旧皇室典範の大正一〇年準則によれば臣籍降下。御殿跡地は一部聖心女子大になっている。
北白川家 道久(王)、昭和一二年生まれ、四世目。北白川宮家最後の王であった。女児三人のみ。御殿跡地は新高輪プリンスホテルになっている。
朝香家 孚彦(王)平成六年八二歳で歿。誠彦(王)昭和一八年生まれ四世目。その子息明彦氏は五世目。御殿は東京都庭園美術館として現存。
竹田家 恒正(王)昭和一五年生まれ、四世目。子息(五世目)多数あるも準則によれば臣籍。御殿は高輪プリンスホテル貴賓館として現存。
東久邇家 信彦王 昭和二〇年生まれ、四世目。子息(五世目)征彦氏、征彦氏に子息あり。御殿跡地はホテルパシフィック東京になり、現在は商業施設品川グース。
伏見家 博明王、昭和七年生まれ、四世目。女児三人。御殿跡地はホテルニューオータニ。
以上の通り久邇家・東久邇家・竹田家・朝香家に男系男子がいらっしゃる。
この四家を皇籍に復帰しないと、いずれ皇族は一人もいなくなってしまう。「何としても旧宮家復帰だ。」という保守業界の世論は強い。この問題については次号で論ずる。(続く)