araki「拉致問題の闇を切る」
【拉致問題の闇を切る】 ―拉致と国防― 荒木和博
私は前々から拉致事件は北朝鮮が引き起こしたものだけれど、それを許してきたのは日本の問題であると言ってきました。もはや「戦後」とも言えない73年間の「戦後体制」の中、安全保障を他の国に委ねながら「平和国家」を装ってきたことが、拉致を防げず、被害者をほとんど取り返せず、あまつさえ国家権力が起きた拉致を隠蔽することにつながったのではないかというのが、この問題に取り組んで来て出した一つの結論です。
ただ、具体的にどこがどう動いたのかという点になるとまだ謎が多かったのですが、先日発刊された阿羅健一・杉原誠四郎著『吉田茂という反省』(自由社)を読んで、その謎の一部が解けたような気がしました。
本書はお二人の対談本です。吉田茂を厳しく批判しています。しかし単なる悪口ではなく、豊富な資料を使って検証したものです。それによると吉田が軽武装・経済発展を貫いて日本の復興の基礎を作ったということは幻想に過ぎず、軍隊がなければ独立国家としてやっていけないことを分かっていながら(しかも当時の世論調査でもそれを国民の多数が支持していたのに)それを無視し、その代わり米国との植民地・宗主国的な関係を自ら作って国家の基本を蔑ろにしたということです。
これには非常に説得力を感じました。ここに戦後体制の根っこがあったのかと。その前提で、少し長いのですが次の文を読んでみていただければ幸いです。予備自衛官の任期を終えるにあたって書いたものです。もし紙にプリントしたものの方が良いのであればお送りします(私の個人アドレス kumoha551@mac.com あてご連絡下さい)。
拉致問題から考える国防の欺瞞
9月5日に予備自衛官を任期満了退官する。
私が予備自衛官になったのは平成15年(2003)9月6日。その前の2週間、予備自衛官補2期生(語学技能・朝鮮語)としての教育を横須賀武山の陸上自衛隊第1教育団で受け、訓練終了翌日となる9月6日付で予備2等陸曹(予備役軍曹)として任官した。
予備自衛官生活15年
もともと予備自衛官は常備自衛官、つまり職業として自衛官を経験した者でなければなれなかった。しかし時代の変化に対応して平成14年(2002)から民間人が予備自衛官補として訓練を受け予備自衛官になる制度が陸上自衛隊に発足した。予備自衛官補には一般公募と技能公募があり、一般は50日(5日間×10回)、技能は10日(5日間×2回)の訓練を受ける。私は朝鮮語の技能で予備自衛官補になった。できれば1期で入りたかったが平成14年の第1期の語学技能は英語だけだった。憤慨して当時防衛庁政務官だった平沢勝栄・拉致議連事務局長に「自衛隊はアメリカと戦争をする気ですか」といったような嘆願書を書いたこともあった。平沢議員からはわざわざ電話をいただきなだめられたが、翌年には英語に加えて自衛隊で言う「露華鮮」、つまりロシア語・中国語・朝鮮語の公募が始まったので早速応募した。ちなみに一般公募の予備自衛官補1期生には現在予備役ブルーリボンの会の葛城奈海広報部会長、高沢1基板橋区議、そしてお父さんが民社党本部時代の先輩でもあり社労士として活躍している専田晋一さんらがいる、皆予備役ブルーリボンの会の会員である。
予備自衛官は3年1任期で、再任用ができるのは59歳までだった。私の場合は59歳で再任用になっているのでそれが最後。今年から61歳まで再任用できる制度改正が行われたが、残念ながら任期切れのひと月前に62歳になってしまいその恩恵に浴せなかった。
私が予備自衛官になった理由は二つある。ひとつは生まれ変わったら軍人になりたいと思っていたこと。もうひとつは拉致被害者の救出である。
拉致問題に関わり始めてこの時点で7年が経過し、その間拉致問題が明らかに安全保障上の問題であるという思いが強まっていた。安全保障の問題であるなら自衛隊が何らかの役割を果たすのは当然だ。しかし自分自身が安全な場所にいて「救出に行け」と言うのもいかがなものかと思っていたところ、予備自衛官補制度ができたのでこれ幸いと応募したのである。
もちろん任官当時47歳、そうでなくても運動神経の劣る自分にランボーまがいのことができると思ったわけではない。ただ、拉致問題について、朝鮮半島について、あるいは失踪者のデータについてそれなりに知識を持っている者として何かのときにはお役に立てるのではないかと思ったのである。
ただし、一般公募の予備自衛官補は50日の訓練を受けひと通りのことはこなすし、最初の階級は2等陸士(2等兵)である。それに比べて私たち技能公募はわずか10日の訓練で最初から陸曹(下士官)、技能によっては幹部(将校)になる。元常備自衛官出身が大半を占める予備自衛官の訓練ではでは周りは皆長年経験を積んだ陸曹として見るのにこちらは射撃どころか行進ひとつまともにできないのだ。
制度のスタートから16年経って予備自衛官の訓練に参加する予備自補出身者が増えて現役にも理解が深まったので大分スムーズにいくようにはなったものの、このギャップに冷や汗をかいた経験は一度や二度ではない。今でも整列しなければならないのに半長靴の紐が結べずに焦る夢とか見ることがある。このコンプレックスは技能公募の予備自は大なり小なり持っているのではないかと思う。
そんな中で作った軍歌「日本陸軍」の替え歌がこれである。元歌は陸軍の各兵科(歩兵とか工兵とか、今の自衛隊で言う職種のこと)ごとを象徴する歌だ。
訓練十日で任官し 基本動作もままならず
敬礼さえもぎこちない 技能予備自の勇ましさ
至高の愛国技の精華 逆さに着いてる階級章
自衛官は拉致問題に関心がない
この種のエピソードはいくらでもあるが、本題に入る。任官して、片足の指先くらい自衛隊に突っ込んで驚いたことが二つあった。ひとつは、昔から「税金泥棒」だ「人殺し」だ「軍国主義の亡霊」だと左翼から散々叩かれてきたにもかかわらず極めて真面目な、きちんとした大組織が続いてきたことの驚きである。東日本大震災以来迷彩服が一般の目に触れることが多くなって自衛隊の好感度は高まっているが、中にいるとその理由を実感する。
実は予備自衛官補から予備自衛官になるとき、何人かの現職自衛官から「失望しないで下さいよ」と言われた。何のことか分からなかったのだが、要は元々の、現職を辞めて予備自衛官になった人たちの士気が低く、せっかく公募で勢い込んで入ったのにショックを受けるのではないかと心配されたのだった。
しかし最初の訓練に行ってみるとそんなことは感じられなかった。予備自衛官の訓練は通常年間5日で、私の場合はほとんど朝霞駐屯地で受けた。年齢も職業もばらばらだが皆それぞれに味のある人たちで、こなすところはしっかりとこなしていた。それが予備自衛官だから、現職はなおのことである。
予備自衛官としての最初の訓練のとき一緒だったのが後に予備役ブルーリボンの会の副代表になる木本あきらさんと幹事になる坪井久さんだった。木本さんは当時プラントのエンジニアとしてエジプトのアレクサンドリアに駐在しており、5日間の訓練の度に地球を半周して帰国していた。もちろん飛行機代は自腹で、自衛隊から支給されるのは千葉の自宅から朝霞までの交通費だけである。坪井さんはお祖父さんの坪井幸生さんが元朝鮮総督府の官僚で、そのご縁で総督府時代の経験を綴った著書を出されるとき家内がお手伝いすることになった。現職のときは映像写真中隊にいて、今もイベントのときには撮影などで活躍してくれている。
ただ、最初の訓練のとき「最近は厳しくなったよなあ」といった話も聞いた。昔は5日間の訓練に出頭して、昼間は熱発就寝(発熱を理由に休むこと)、夜は宴会というのを続けて5日目に手当をもらって帰ることもあったというのである。私は幸か不幸か一度も経験しなかったが。
さて、それは良かったのだが、問題は今回のテーマに関わる、もうひとつの驚きである。それは「自衛官の大半は拉致問題に関心がない」ということだった。これは予備自衛官より常備自衛官にその傾向が強かった。詳しいことは知らないにしても、自分の国土から国民が連れ去られているのだから悔しいとか、何とかしなければいけないという思いは人一倍持っているだろうと思っていたのだが、基本的には一般の民間人と変わらないのである。
訓練のときではないがこんな話もあった。知人の娘さんが航空自衛隊を志願し、受験して落とされてしまった。その理由自体は分からないが、面接のとき「なぜ自衛隊を志願したのですか」と聞かれて「拉致問題に関心がありまして」と答えたら試験官が「自衛隊と拉致問題とどういう関係があるのですか?」と聞いたというのである。
拉致問題は工作員が日本に侵入し、日本国内に工作員の拠点やネットワークがあって日本人を拉致し不法に連れて行くのである。明らかに安全保障問題なのだから、軍隊が関与するのは当然である。もちろんこれには外交問題とか様々な要因があるので軍隊だけでやるべしというのではない。少なくとも何らかの役割を担うべきだということだ。
しかし、日本の中にはそれを否定する人間が今でも少なくない。しかも、何も分からない民間人が言うならともかく、各自衛隊のトップである幕僚長経験者の中にすら「拉致問題は警察の仕事」と言ってはばからない人もいるのだ。私自身元将官クラスの人と半ば怒鳴り合いになったこともあるし、元自衛官の国会議員が自衛隊による拉致被害者救出はできないと、法律論を延々と述べているのを横で見ていて呆れたこともある。「こういう人たちは何のために自衛官になったのだろう」と思ったことも一度や二度ではない。
こう言うと「今の憲法が悪いのだから、それを変えなければ拉致問題は解決しない」という答えが返ってくるかも知れない。確かに今の憲法に問題があることは間違いない。しかし安倍政権がやろうとしている憲法改正は自衛隊を明記するだけのことであって、役割や権限は変えないと、総理自身が言っているのだ。ならば大騒ぎして憲法を変えても拉致被害者の救出などできないではないか。
「一度変えてしまえばまた変えられるようになる」という意見があるかも知れない。しかし安倍政権でできる憲法改正は、成功してもこの1回だけだろう。その後また変えようという総理大臣が出てくる保証もなく、それができて、それから準備して拉致被害者を救出しに行く頃には本人も家族も皆死に絶えているはずだ。
できるはずもない「専守防衛」
もともとこの国の国防は基本方針自体が欺瞞の塊である。「専守防衛」というが延べ3万5千キロ、北方領土を除いても3万4千キロの長大な海岸線をどうやって「専守防衛」で守るというのか。できるわけがないではないか。日本海には毎年数十隻の北朝鮮船が漂着している。昨年の11月から今年2月までの4か月間はとりわけ集中し、百隻以上がやってきているのだ。その大部分は漂着してから発見されている。海上で見つかったのはごく一部でしかない。警察も海上保安庁もほとんど侵入すら気付くことができないのである。
さらに本当の遭難に混じって何らかの意図を持って日本にやってきている船もある。去年11月には秋田県由利本荘市に8人、北海道松前町に10人の乗った船が着岸した。どちらも乗組員は機関故障による遭難と言っていたそうだが、場所から言って由利本荘も松前も着岸したのは操船しない限り入れない場所である。由利本荘の船はあと2人乗っていたという話があるし、それ以外に北朝鮮の何らかの要員が上陸に成功したケースも少なくないと思われる。
昔から北朝鮮工作員にとって日本に侵入するのは「メシを食ってトイレに行く程度のこと」と言われていた。能力の劣る工作員が日本への侵入に使われるという話もあった。そんな風にして何十年もの間好き放題にされ、国民を拉致されていて何の「専守防衛」か。散々ヒットを打たれて得点されながらただ守備を続けているだけではないか。
政府は「専守防衛」を補う形で「米軍が矛、自衛隊が盾」と言ってきた。これこそ文字通りの「矛盾」である。憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と書いてある。その通りなら「矛」はそれ自体があってはいけないはずだ。9条2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」というのは自分は手を汚せないから汚い仕事はアメリカにやってもらうという意味なのか。それでは保護国に甘んじるということであり、保護しないと言われてしまえばお手上げということではないか。他国がいなければなりたたない国防というのは「国防」ではなく、それ自体が言語矛盾である。
主権回復後66年、要は日本の国防の基本は間違っていた。他国を信頼して安全を委ねる、軍隊を持たないというファンタジーと虚構は、もともとは日本を二度と歯向かわせたくないという米国の意図によるものである。しかし主権回復後も延々とそれを続け、嘘をごまかすために自警団の親分のような名前を使い、駆逐艦を護衛艦、大佐を1佐と言い換えてきたのが我が国である。もちろんその矛盾をカバーするために自衛隊の内外で様々な人々が血のにじむような努力をしてはきたのだが。
自衛隊が合憲だというなら9条2項の冒頭「前項の目的を達するため」という芦田修正をもって閣議決定で 改憲をしてしまえば事足りる。あとは総選挙で信を問えば十分だ。そもそも極めて改正のハードルの高い憲法を細かい条文まで杓子定規に適用していたら国がやっていけるはずがない。
日本人は規則を守るのは得意でも作るのは苦手だ。憲法のような基本方針を変えるのは不得手中の不得手である。帝国憲法も一度の改正もされなかった。特に、形式的には国家と国家が合併した日韓併合のときも帝国憲法には変更がなされなかった。行政機関として設けた朝鮮総督府は通常であれば国家の行政機関に匹敵する組織である。しかし帝国憲法には1行たりとも総督府については書かれていなかった。いくら「不磨の大典」とは言っても常識的には考えられないことだ。
逆に言えばそれでも総督府の統治はできたのであり、現代に当てはめれば憲法に明記しようがしまいが自衛隊は軍として存在しるうるということだし、現実に存在していることは誰でも認めざるをえないだろう。今の憲法をどう思っているかは別として、「憲法違反だから自衛隊はなくすべきだ」と本当に思っている国民はほとんどいないだろう。さすがにこの時代、軍事力を持っていることは当たり前と認識している人が大半だと思う。
そしてその「当たり前」という意味で言えば、国家を護る軍本来の姿として、囚われた国民を救うというのは当然の任務だということだ。
犠牲を厭わず国を守った韓国
さて、「専守防衛」という点から日本と韓国を比較してみたい。今の韓国はある意味北朝鮮の傀儡政権だが、それと全く異なった時代、1970年代朴正煕政権の頃の韓国である。
昭和43年(1968)1月21日、大統領暗殺を命じられた北朝鮮のゲリラ31名が休戦ラインを越えて韓国に入りソウルの大統領官邸の後背にある北岳山まで迫った事件があった。このときは実行前に発覚し29名が射殺、1人が生け捕りにされ1人は北朝鮮に逃げ帰る。逮捕された人民軍少尉金新朝が記者会見の場で浸透目的は何かと質問され「朴正煕の首を取りに来た」と語ったのは有名な話である。
さらに同じ年の十月から十1月にかけて、北朝鮮は120名のゲリラを日本海側の海岸に侵入させた。その一部は山中の家に乗り込み、家族を斬殺している。その中には「共産党は嫌いだ」と言ったために殺された小学校2年生の男児、李承福もいた。
これらの事件は朝鮮戦争休戦から15年、まだその記憶が生々しいときであり、韓国民に与えたショックは大きかった。これに対して韓国が行ったのが、逆に北朝鮮にゲリラを送り込み破壊活動をする、「Tit for tat」(しっぺい返し)という戦術だった。そのために作られた特殊部隊の1つが後に映画「シルミド」の題材となった空軍の684部隊である。
送られた特殊部隊、いわゆる「北派工作員」は7726名が帰ってこなかったというが、韓国はその犠牲をもって国を守ったのである。休戦ラインからソウルまでは最短40キロという近さであり、その休戦ラインは延長250キロという長さである。攻撃する側は自由にその場所を選択できるが、守る側は全てに目を光らせて、どこから来ても対応できるようにしなければならない。専守防衛などという夢物語では絶対に守れない現実がここにある。やられたらやり返すしかないのであり、その姿勢こそが北朝鮮に恐怖感を与え、話し合い路線へと転じさせたのである。
韓国の国防は米軍の存在なしにはなりたたなかった。しかし当時の朴正煕政権はそれが永遠・絶対的なものだとは思っていなかった。実際在韓米軍撤退を選挙公約にしたジミー・カーターが昭和52年(1977)大統領に就任するとその懸念は一層現実的なものとなった。韓国は、結果的には米国に止められるが抑止力を確保するために核兵器の開発も試みた。また、独裁として悪名高き「維新体制」によって国内の批判を押さえ、重化学工業、とりわけ軍需工業の育成を図って自主防衛の体制を築いていった。ともかく当時の韓国は必死だったのだ。
米国依存という点ではある意味日本も韓国も似た部分がある。しかし、その真剣さにおいて日本は当時の朴正煕政権に遠く及ばない。それでも、本当に日本が守られていたのなら良いが、現実には国土を蹂躙され国民を連れ去られているのである。
自社なれ合いによる軍事力の日陰者扱い
米国による保護国に甘んじる、その根源である憲法を守り、しかし何もないわけにはいかないので「自衛隊」という中途半端な行政機関を設けて、「戦力ではない」というごまかしを続けててきたのがこの国だ。昭和30年(1955)から始まる自社両党による「55年体制」、さらに言えば安保改定が終わり岸政権が退陣して社会党から民社党が別れたあとの「60年体制」の自社なれ合いはこのごまかしを維持するには最高の組み合わせだった。
自民党はもともと憲法改正を党是としていたはずだが、社会党がいるおかげで保守の側には「改正したいが今はできない。だから憲法改正を実現するために票が欲しい」と言い続ければよかったし、社会党は社会党で自民党政権が続くこと(言い方を変えれば米国が守ってくれること)が前提で、それに表面だけ反対することで野党第1党という立場に安住することができた。ついでに言えばそのような擬似連合政権だったからこそ細川・羽田政権で権力の座から引きずり降ろされた後、平成6年(1994)になっていきなり自社連合政権である村山内閣が組織できたのである。あのとき自民党からも社会党からもほとんど離脱者がいなかったことが、両党が表面対立、裏でなれ合いの政治で何十年も国民を欺いてきたことの証明でもある。
その中で自衛隊が軍隊であることは一貫して否定されてきた。歴代の防衛庁長官の名前の中に金丸信、加藤紘一、山崎拓といった親朝派の大物がおり、一方で後に総理大臣になった人間が中曽根康弘1人しかいないのが全てを物語っている。要は軍事力は徹底して日陰の存在でなければならなかったのだ。防衛庁長官は格下の伴食大臣であり、大物あるいは本気で国防を考える人間はごく一部しか任命されなかった。
救出のためには軍事力の関与が絶対に必要である
さて、国家にとって武力はその存続のために必要不可欠である。それは国家が自ら立つための精神的支柱でもある。最後は戦って同胞と国土を、そして歴史を守る覚悟がなければそれは国家ではない。そこに必要なのは行政機関としての「自衛隊」ではなく「国軍」である。そして軍としての栄誉は生命をもって裏打ちされたものでなければならない。あえて言うが憲法は関係ない。軍は憲法以前の存在である。もし本気で今の憲法の通りにするのであれば自衛隊も日米安保もあってはいけないはずだ。「明記」などというごまかしで済む話ではない。現実問題として軍事力が必要だというなら自衛隊ではなく軍隊であるのが当然だろう。
北朝鮮は強そうに見えて極めて怖がりの国である。ブッシュ・ジュニア政権のとき「悪の枢軸、イラン・イラク・北朝鮮」と名指しされたことに恐れて金正日は日本との交渉に逃げ道を探り拉致を認めて5人を返した。トランプ政権が強硬だったとき金正恩は話し合いに応じた。要は彼らにとっては力が全てなのだ。力の裏付けのない交渉では何の意味もないし、日本がいざとなれば戦う姿勢を見せたとき北朝鮮の姿勢はおそらく急変する。例えば日朝交渉に軍服を着た軍人が参加することだけでも効果を見せるはずだ。それ以外でも自衛隊は情報収集にはいくらでも使えるし、体制急変時に邦人保護の活動ができるのは自衛隊しかおらず、その準備は直ぐにでも始めるべきだ。
北朝鮮の通常兵器などたまに船を沈めたり島に砲弾を撃ち込むなど、脅かし以上には使えない。全面的な戦争する能力などない。海岸線の防備など問題外だし、北朝鮮の海軍に至っては大東亜戦争どころか日露戦争当時の連合艦隊があればことごとく海の藻屑だろう。国民を餓死させる貧乏国家が核・ミサイルに資源を投入したら通常兵力がどうなるか、素人でも想像がつくではないか。
もうひとつ書いておきたい。どんなに米国に期待しても拉致被害者は帰ってこない。福井義高・青山学院大教授が指摘しているが、米国は国家の命令でベトナム戦争に送った兵士を見捨てる国なのである。しかもその首謀者はベトナム戦争の捕虜としてヒーローになり、共和党の大統領候補になったジョン・マケインなのだ。私たちにとって参考書はあっても教科書はなく、友人はいても保護者はいないという、当たり前のことを再認識すべきである。
拉致問題で今の状況が続くのは「現状維持」ではない。残り時間がなくなっているということだ。ストックホルム合意が今でも続いているとか、トランプに頼んで金正恩に話してもらうなどという情けない手段に頼り(それももはやほとんど望みは絶たれている)、それでも軍を拉致問題に一切使わないというのは被害者を見捨てることと何の違いもないのである。
拉致被害者は取り返せる
さて、本稿で私は自衛官に拉致問題への関心が低いと書いた。しかし、自衛隊の名誉のためにそうではなかったという話も書いておかなければならないだろう。
平成11年(1999)5月2日、東京の日比谷公会堂で初の国民大集会が開催された。ゴールデンウィークの真っ只中に全国から集まった1900人の参加者の前でシンポジウムのパネリストだった佐藤守・元空将は元自衛官として拉致を許したことが申し訳なかったと語った。
平成14年10月15日、前月の小泉訪朝で北朝鮮が認めた蓮池薫さんら拉致被害者5人が帰国した。ちょうどその2日後、17日に帰国を果たせなかった拉致被害者増元るみ子さんのお父さん、増元正一さんが亡くなった。危篤の報せを聞いて東京から鹿児島に飛んだるみ子さんの弟、増元照明さんに「申しわけありませんでした」と飛行機の機内で泣いて謝ったた男性がいた。現役の自衛官だった。私服を着ていたのだから何も言わなくてもわからなかったはずなのに、黙っていられなかったのだ。
この間自衛官はそのような感情を持つことをある意味禁じられてきたとも言える。拉致問題に関心が低いのは決して当事者だけのせいではない。しかし、極めて質の高いこの組織は、いったん拉致被害者の救出に取り組むということになれば、今関心のない自衛官もふくめて、大きな働きをすることになるだろう。
もちろん、それは一朝一夕にできるわけではない。準備をしっかりしなければいたずらに犠牲を増やすことになりかねない。だから今からその準備を進めていかなければならないのである。
私は本稿を残り任期少ない予備陸曹長として書いている。本来予備自衛官の立場でこういうものを書いてはいけないらしいが、あえて今、問題提起として書いた。自衛隊員の服務の宣誓には「私は、わが国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し…」とある。しかし日本国憲法と自衛隊法をまともに守っていたらわが国の平和と独立は守れない。もちろん拉致被害者も取り返せないし拉致を防ぐこともできない。
繰り返すが独立回復後66年間の日本の国防の基本方針は間違いであり、その間違いが多くの日本人を北朝鮮に拉致されて大部分を未だに取り返せないことにつながっている。しかし、総理が、あるいは国民が決断すれば自衛隊は間違いなく軍として拉致被害者の救出に寄与できるし、またしなければならないと確信する次第である。そしてそれこそが本当の意味での「国防」であると確信する。
最後にひと言申し上げたい。以上述べてきたことに反論のある人、特に元自衛官ないし現職自衛官で反論のある方とはぜひ公開の場で議論をしたい。ご連絡をいただけることを期待している。
(平成30年8月16日記)