shohyo「書評」
【阿南陸相と松山武雄】 三浦小太郎(評論家)
大分県竹田市の広瀬神社は、日露戦争にて戦死した広瀬武夫中佐を祭っている。この神社に、同市出身の阿南惟親陸軍大臣の胸像が設置されたのは、2015年8月のことである。戦後70周年の年に、阿南惟親が地元で正当に評価されたことは、大変意義深いことであった。
阿南の著名な言葉がある。「一、若さは力なり 一、勇怯の差は小なり、されど責任観念の差は大なり 一、知諜の差は小なり、されど実行力の差は大なり 一、己に厳、人に寛、身を以て衆引を率ゆべし 一、徳義は戦力なり」この二番目の言葉こそ「責任」という言葉の重さを感じさせるものは少ない。そして、この精神はまず、2.26事件の際の阿南の訓話として表れている。
阿南は青年将校たちの思いが純粋なものであることも「勇」をもって実践したことも、決起を思い詰めた背後に農村の疲弊や格差の拡大、社会矛盾があることもよく理解していた。しかし、これは明らかにクーデターという不法なものであり、軍としての責任を逸脱した行為である。阿南は明確に「農村の救済を唱え、政治の改革を叫ばんとする者は、まず軍服を脱ぎ、しかる後に行え」と論じた。
「勇」を誇り「正義」の側にいると確信すれば法を破ってもいいという発想を、阿南は理論以前に性格的に受け入れられなかったのではないだろうか。阿南にとって軍人の「責任」とは、そんな軽いものではなかった。阿南は統帥権という理念を最も厳しく認識し、もしも軍人が政治にかかわるのならば、その際は軍人たることを捨てなければならないと信じた。そして青年将校たちが、自らの政治的意思のために逆らうことのできない兵士たちを動員したことも許せなかったのだろう。これほどの厳しい「シビリアン・コントロール」の精神はない。
この精神は敗戦に至る最も困難な時期にも貫かれていた。原爆投下からポツダム宣言受諾をめぐる最終段階で、阿南が陸軍大臣としてどのような心境にあったかは、いまだに諸説がある。しかし、阿南自身は何一つ書き残さなかった以上、それは彼の生涯を貫いた「責任」の精神で判断するのが最も妥当だろう。
陸軍大臣として、陸軍多数派の意志である本土決戦、少なくとも連合軍に一撃を与えたのちに、少しでも国体護持が保障される方向で融和を結ぶという意見を、内閣で堂々と説くのがまず責務である。同時に、軍人としての責任として、本土決戦にて勝利できるなどということを軽々しく言うことは絶対にできない。(阿南は特攻隊を出せば勝てるとか、神国日本は大和魂で守り切れるなどといった発言は、少なくとも公的な場では絶対に口にしなかった)そしてご聖断が下り、内閣として方針が決定した段階で、陸軍大臣のなすべきことは、その決定を一糸乱れず実行することであり、そのためにはすべての手段(自決を含む)を取る覚悟が阿南にはあった。阿南の敗戦時の様々な言動と、14日夜半の自決に至る言動は、私は以上のように素直に解釈すればよいと思う。
鈴木貫太郎首相に阿南が最後に述べた「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。」という言葉が阿南の真意であることを疑わなければならない要素は今のところ存在しない。
そして、ジャーナリスト下川正晴氏の記事「終戦時の陸相 阿南惟親」には、これまで明らかにされていなかった興味深い事実が紹介されている。下川氏は、阿南陸相の婦人、綾子氏(1971年仏門に入り、1983年死去)が残した短歌をいくつか紹介しているが、同歌は家族の私家版として印刷されたもので、今後も正式に発行される可能性はないという。
婦人が夫の自決の知らせを受けて詠んだ歌。
教えこし 言葉のままに もののふの 道をふみつつ 君は散りぬる
また、次の歌を、下川氏は阿南惟親の辞世「大君の 深き恵みに 浴みし身は 言ひ遺すべき 片言もなし」への「返歌」として紹介している。
君を思ひ 国憂いつつ 皇軍(みいくさ)に ささげし夫が いまはにぞ哭く
そして、阿南惟親の次男、惟晟は中国湖南省で戦死した。「風と共に去りぬ」「戦争と平和」を熱心に読みふける文学青年だった。
夢か否 夢にはあらず かなし子が 湖南の華と 散りしおとずれ
そして阿南陸相は自決の前、酒を酌み交わしながら「私も惟晟のもとへ行く」と言い、戦死した次男の写真を、自決のために脱いだ上着の中に入れ「終わったら、私の上にかけてくれ」と、同席していた竹下中佐に言い残した。
この子息に関して、角田房子氏の阿南惟親伝「一死 大罪を謝す」(ちくま文庫)には、阿南陸相自決の日「松山という名の朝鮮人」が阿南邸を訪ねてきたという記述がある。これは下川氏が初めて明らかにしたのだが、彼は日本名「松山武雄」、後に韓国初代合同参謀会議議長(陸軍大将)となる李亨根だった。彼は惟晟の陸軍士官学校時代の同級生で、戦友が湖南省で戦死した状況を語るためにこの日阿南邸を訪れたのだった。
「『一人だけ生き残って面目ありません。』と申し上げると、さすがの母堂もハラッと落涙され、『どうか惟晟の分まで頑張ってください」とおっしゃった。『阿南が連日連夜の激務で、近ごろは帰宅いたしません。あす私と一緒に陸軍省にまいりましたら、どんなに喜ぶことでしょう。今夜は私どもとごゆっくり。』と勧められた。私もつい御厚意に甘えて、実家に帰った気持ちで、その晩はお世話になることにした。』(陸士同期生会報15号より)そしてこの夜、阿南陸相は自刃したのだった。
戦後も、李亨根と阿南家の間には、温かい交流が続き、綾子氏が亡くなった時には長文の弔辞が李から届いたという。このようなエピソードを日韓両国の学校が、生徒たちにきちんと教えることこそ、私は真の相互理解のために必要なことだと信ずる。
(本稿は、ミニコミ「石川時事評論」2017年4月発行号に掲載したものに加筆修正を加えた)