contribution寄稿・コラム
姜尚中の暴言「処刑は在庫一掃セール」 三浦小太郎(評論家)
1995年、日本を根底から揺るがした地下鉄サリン事件を筆頭に、様々なテロ事件を起こしたオウム真理教幹部の死刑執行が行われた。事件当時35歳で、大きな衝撃を受けた筆者にとっても、今回の死刑執行は様々な問題、特に信仰を求め真理を求める心こそが、逆に「非信者」「異教徒」「俗世」を否定していく悪しき前衛主義を生む恐ろしさを再認識させられた。私は決して彼ら死刑囚を、麻原を含め、全否定する立場ではない。彼らは彼らなりの真理を本気で見出したと思った瞬間があったろう。だからこそ、彼らはあのようなおぞましいテロも犯罪も、その真理の前には肯定させるものとみなしたのだ。
しかし、私は処刑された彼ら以上に、これは卑劣であるという発言を今回まざまざと見せられることになった。一応大学で教授職や学長職を務め、今も知識人として雑誌社やテレビ局で重用されている人物が、ここまでひどい表題のもと、あまりにも無知な(政治思想の立場ではなく、すぐ手に取れる資料を読んでいないとしか思えない)発言を行うこと、それを編集も全くチェックせず、当然のことのように世に出すこと、私はこの現象こそが、オウムのような事件を生み出す現代日本の知的退廃の象徴としか思われない。
その記事は、「オウム事件『ケリをつけるための死刑執行は在庫一掃セールのよう』。筆者は姜尚中、雑誌AERA 2018/07/18号に掲載され、ネットでも読むことができる。公正を期するために生姜自身の記事を引用しつつ批判していくことにするが、まずこの表題からして、この処刑もまた事件そのものも馬鹿にしているとしか思えない。私の言語感覚では、今回の死刑執行を真摯に抗議するつもりならば、また、いかなる犯罪者に対しても信念として死刑廃止論を貫く立場だったら、このような表題は絶対に思いつかない(最初は、いくらなんでもこれは編集部の質の悪いタイトルだと考えたのだが、記事を読み進めると、姜自身がこのままの言葉を使っていることが分かった)。まずそのことは私も物書きの端くれとして宣言しておく。
「死刑囚の精神の闇」を解き明かすのは裁判官ではなく知識人の仕事
「オウム真理教、教団トップら7人の死刑が執行されました。松本智津夫元死刑囚が万死に値することは間違いありませんし、被害者やその家族にとって一つの区切りという面もあるでしょう。しかし、なぜこの希代のペテン師に学歴も知性も備えた若者がイカレてしまったのか、依然として解き明かされぬままです。裁判で宗教家や心理学者、哲学者ら専門家の意見も聴取しつつ、元死刑囚の闇に迫ってほしかったと思います。」(姜尚中)
私(三浦)は、私なりにオウム裁判記録は単行本で出版されているものを通じていくつか読んだ。傍聴に行ったわけではないが、報道されたものにも多少目は通した。また、オウム真理教の内部資料や、信者・元信者の発言、ジャーナリストや学者の調査・教義分析などは、充分かどうかはともかく一定数書籍化されており、私も数冊手に取っている。
その上で言うが、完全に解き明かされたとは言えないまでも、この事件を引き起こしたオウムの教義については一定の調査はすでになされている。オウムはチベット密教のグルイズム(弟子は師に絶対の忠誠を誓い、時には理不尽な命令にも従うことによって修業が進む)悪用し「学歴も知性もある」若者のエリート意識をくすぐりつつ、彼らを「世界を救うための殉教者」に仕立て上げていった。同時に、彼らの教祖麻原への帰依は、ヨガと密室修行を組み合わせ(のちにはドラッグも用いているが)、ある種の神秘体験を与えることにとって産み出されている。
これらは、今回処刑された井上嘉浩の証言や、林郁夫が自らの体験をまとめた「オウムと私」を読むだけでも明らかであるし、特に初期女性信者の修行体験記は、彼女らの自我が神秘体験で解体されていくさまが(当事者の感動と共に)率直に語られている。若い弟子で、サリン事件直後、信者としての立場で自主的にテレビに出演し、オウムの内情を語った高橋英利(「オウムからの帰還」(草思社)著者)の本を読めば、サティアンの中でどんな悪夢のような日常(LSD投与、テロリズムそのもののスローガンの強要と洗脳など)があったことも描かれている。まずこれらに目を通す努力を姜尚中はしたのだろうか。
そして、裁判の場は本来思想を裁く場ではなく犯罪事実を法に基づいて裁く場であり、そこで社会や宗教の問題を論ずるのは逆に危険(それこそ思想統制になりかねない)なことだ。しかし、今回裁判所は、事件の本質に少しでも迫るために、宗教学者の証言なども取り入れようとしている。例えばネット上では、裁判所に提出された資料の予備原稿が「高橋克也被告裁判・証言草稿──地下鉄サリン事件20年に際して 大田俊寛 / 宗教学」を検索すれば読むことができるが、オウム事件の背景にある、1960年代後の「ニューエイジ」運動についての分析を含む興味深いものである。他にも、オウムを論じた本はいくつもあり、同情的なものであれ断罪であれ、少なくとも問題の本質に触れようとした良質な著書は多い。
このように、多少なりとも努力すれば、オウム事件を理解するための資料は少なくないことがわかるのだ。ついでに言うと、私は麻原(松本という名前はあえて使わない)が稀代のペテン師だとは思っていない。逆に稀代のペテン師なら金儲けはしてもああいうテロは行わない。北朝鮮の実態を知っていながら「地上の楽園」という偽宣伝を行い同じ在日を騙した朝鮮総連議長ハンドクスとかは確かに稀代のペテン師というべきだが。
裁判記録を読まず歴史への無知もさらけ出す姜尚中
(姜)「裁判には可能な限り真相に迫り、歴史の検証にたえうる記録を残すという役割もあります。これらがほとんどすっぽかされたまま、ケリをつけるための死刑執行はまるで在庫一掃セールのような様相を呈しました。海外の反応も、その異常さに疑義を唱えるものが多かったと思います。」
裁判記録は確かに重要で、私はこの事件に関してはもっと一般の方に自由に読める形で、例えばネット上などで無料全面公開すべきだと思う。それが今後のカルト問題への対処ともなりうる(犯人以外の固有名詞はプライバシー上望まないものはすべてイニシャルにすればいい)しかし、この裁判記録が「すっぽかされた」「歴史の検証に堪えない」ものであるというのなら、少なくともその根拠を姜氏は示さねばならないだろう。
私は裁判記録の全文を読んではいない。しかし、単行本などの引用やネットでの記録を読む限り、裁判という限界内ではあれ、かなりの部分事件については明らかにされている。
繰り返すが、裁判の場で人間の精神の闇や、宗教の問題を全て議論することは不可能である。唯一その可能性があるとしたら、弟子たちが裁判の場で真摯に麻原に問いかけた言葉に、麻原が同じく真摯に答えるほかなかった。麻原が一切それを拒否し、それこそ自らの「闇」にひたすら自閉していった段階で、裁判上できることはほとんどないのだ。どう考えても、姜が真摯に裁判記録を読み解いているとは思えないし、今後ともそれをする保証はない。
麻原崇拝を心配するより金独裁政権崇拝を批判してはいかがか
(姜)「また、死刑執行後の問題として松本元死刑囚の死が後続の教団メンバーから殉死と見なされかねない問題が浮上しています。(中略)こうした問題から思い浮かぶのは、ナチスドイツです。ヒトラーの自決を殉死とみなし、崇拝が復活しないよう連合国の間にその遺体の在りかを明かさない暗黙の了解がありました。(以下略)」
まずこれは歴史的事実として、少なくとも私の読んだ資料とは全く違う。ベルリンで自殺したヒトラーの遺体は焼かれたが、その痕跡や証拠になりそうなものをスターリンはむしろ隠蔽し、西側に充分な具体的情報を隠し続けた。スターリン自身、どこかあヒトラーの死を信じ切れなかったところがあったともされるが、この二人の20世紀前半の世界を殺戮で覆った独裁者の心理は、ちょっと凡人の意識を越えるものがある。まあ常識レベルで考えれば、スターリンはヒトラー生存の可能性をも政治的・外交的に利用しようとしたのだろう。実はかなり早い時期にヒトラー生存説はうわさとして出ており、そのような陰謀説に対抗して書かれたのが、トレヴァー・ローバーの「ヒトラー最期の日」(1947年)である。少なくともローバーの本を読む限り、私はヒトラーの死について、スターリンと英米との間にそんな「了解」があったとはどうにも思えない。
しかし、以上のことは歴史の解釈である。今現在の話をしよう。姜氏は麻原が崇拝されるのを恐れているようだが、オウムよりもはるかに膨大な(もちろん数の問題ではないが)多くの朝鮮人を殺害し、餓死させ、政治犯収容所に送り込んだ金日成や金正日が、ここ日本国内の朝鮮総連内や、韓国の従北派、そして北朝鮮の独裁体制の中で「崇拝」されていることにこそ心配すべきではないだろうか。こちらは今もまだ「テロ」が続き、実行犯は逮捕も処罰もされていない。それどころか政治権力の中枢にいるのである。「人権」を重んじるのならどちらが大事か、考えていただけないものだろうか(終)