contribution寄稿・コラム

特別寄稿 西村眞悟

特別寄稿 西村眞悟

 
 ゴールデンウィーク半ばの、まことに忌々しい「憲法記念日」に、ふと、会田雄次著「アーロン収容所」を思い浮かべ、ページを繰って印象に残っている箇所を探した。すると、敗戦後の被占領状態に置かれた日本に最高司令官として君臨したアメリカ陸軍元帥D・マッカーサーの正体と、我らの少年時代には、「マッカーサー憲法」と呼ばれていた「日本国憲法」が如何なる文書なのかが分かったのである。
 
 そこで、次に、ビルマでイギリス軍の捕虜となり二年余の間、アーロン収容所に拘束された日本軍兵士、会田雄次が書いた「アーロン収容所」の示唆に富む箇所を紹介する。
 
 まず、会田が何故自分の捕虜生活を書いたのか。彼は、「まえがき」で、こう語っている。
「このままでは気がすまなかった。私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、確かに見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であった。」
 
 では、会田は、如何に見届けたのか。それは次の通りだ。
「日本軍捕虜に対する英軍の待遇のなかにも、やはり、これはイギリス式の残虐行為ではないかと考えられるものがある。そして、英軍の処置のなかには、復讐という意味がかならずふくまれていた。・・・一見いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような復讐がこめられていたように思う。」
 
 その例を会田は次のように掲げている。
英軍は、百何十人かの日本軍捕虜をイラワジ川の一日に数時間水没する中洲に閉じ込めて飢えさせた上で、カニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという命令を出した。捕虜の兵隊達もそのことは知っていた。しかし、飢えて食べないではいられなかった。そして、みんな赤痢にやられ、血便と血反吐を吐いて斃れて死んでいった。
岸から双眼鏡で毎日観察していた英軍兵は、捕虜全部が死んだのを見とどけて、「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」と上部に報告した。
 
 さて、D・マッカーサーとは何者か。彼の先祖は、スコットランドの貴族で、彼の祖父が少年の時にアメリカに移住した。そして、彼は、アメリカの陸軍士官学校を卒業して軍人となり、五十歳という史上最年少で陸軍参謀総長に就任する超エリートとなる。
しかし、この超エリートが、アメリカ極東軍司令官としてフィリピンにいるときに勃発した大東亜戦争の緒戦で、我が海軍航空隊と本間雅晴中将率いる陸軍第十四軍に、コテンパアにやられて壊滅し、バターン半島から数万の部下を残して敵前逃亡する最低の司令官になったのだ。
 
 しかし、この敵前逃亡者は、アメリカ軍の勝利によって返り咲き、鬱屈した屈辱を内に持ちながら、こともあろうに、日本占領軍の最高司令官となって日本を占領統治することになった。
この同時期、会田雄次は、アーロン収容所でイギリス人に拘束されていたのであるが、その体験を記した会田の文章にある「英軍」と「イギリス人」を、「マッカーサー」に読み替えれば、彼の日本占領統治の奥底に、日本と日本人にたいする「この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような復讐がこめられている」のが実によく分かる。
 
 即ち、執拗な戦犯処刑。民主主義を掲げて、最も非民主的な手法によって「日本国憲法」を押しつけ、その「憲法」の、平和主義の下に、日本を永久に武装解除状態に固定し、同時に国民を自らを守ろうとしない未熟児状態に貶め、人権尊重と個人の尊厳の名の下に、国民を共同体から切り離された砂粒のようにバラバラな存在にした。これらは、全て、「一見いかにも合理的な処置」に見える復讐そのものではないか。
 
 一体、この「憲法」が、有効なのか。自信をもって言う。無効では無いか。