yukoku「憂国の風」

追悼 西部 邁先生   玉川博己(三島由紀夫研究会代表幹事)

追悼 西部 邁先生
 
玉川博己(三島由紀夫研究会代表幹事)

 
去る1月21日西部邁先生は多摩川に入水される形で突然の自裁死を遂げられた。享年78。マスコミは60年安保の全学連闘士にして、現代の保守派の論客である西部邁氏の死を、病気のせいだとか、奥様に先立たれたことが遠因だとか様々な憶測記事で論評したが、私が見た中で最も正しく西部邁氏の業績とその死を論じたのが、文芸評論家の富岡幸一郎氏が1月23日付の読売新聞朝刊に寄稿された「追悼 西部邁さん」という文章であった。富岡幸一郎氏は憂国忌代表発起人として、やはり憂国忌発起人であった西部邁氏とのつながりの中で、西部氏が創刊した『表現者』の編集長もつとめた深い因縁を持つ方である。
 
富岡幸一郎氏はこの追悼文の中で、「いわゆる六十年安保闘争に全学連主流派幹部として参加し、その後保守を標榜する評論家になった西部邁を、左翼からの思想的転向と見なす一部の意見があったが、それは全くの誤解、いや偏見に過ぎない。」と世に流布する「西部邁=転向者論」を真っ向から否定している。
 
更に富岡氏は続けて、この稀有な思想家である西部氏が対峙せんとしたものが、「それは敗戦・占領以後、七十有余年にもわたって、自分の国を自分で守ることすらせず、生命と価値を他国にあずけ、経済的繁栄に現(うつつ)を抜かしてきた戦後という時代であり、『自由』や『民主主義』という言葉の定義もなく、『平和国家』なる虚妄を信じようとしてきた欺瞞的な日本人に対する、根本的な批判(クリティーク)である。」と断じ、「さらにいえば明治近代化以降の、近代主義に骨がらみとなった日本と日本人、そして普く広がった近代文明の病理と危機に対して、歴史と文化の中で持続してきた価値(氏はそれを習慣と区別し『伝統』と呼ぶ)を明晰な論理によって語ることである。」と西部邁氏の知的作業が目指すものを明らかに示した。そして西部氏の死の意味について「此の度の自裁死もまた、長年親しくさせて頂いた筆者には、西部流の知行合一、インテグリティの結実であると了解したのである。」と述べている。
 
何年か前の憂国忌に登壇者として参加された西部先生は、終了後の直会の場で突然「今から天皇陛下万歳を三唱するので、皆さんもご唱和頂きたい」と提案され、大きな声で「天皇陛下万歳」の発声をされた。その場にいた私の目には、かつての60年安保闘争を戦ったブント(共産主義者同盟)のリーダーであった西部先生が、皇道に帰一した歴史的瞬間であると感じたが、その後の西部先生との歓談の中で、自分たち(西部氏たち60安保年ブント)が安保闘争を戦ったのは、対米従属の岸政権への反発と攘夷運動のためであり、自分たち誰ひとりマルクスなんか読んでいなかった、と正直に語られたのは印象に残った。
 
昨年刊行された西部先生の著書『ファシスタたらんとした者』(中央公論新社)は、西部先生の自伝的文章であり、今回の西部先生の自裁の意志が予見される内容であり、是非多くの方に一読を勧めたい。とくに本書の巻末に「結語に代えて」として「天皇論」がまとめられているがその内容は極めて重要である。西部先生が「天皇は文化的象徴にとどまるべき」というとき、三島由紀夫先生やあるいは日本浪曼派の天皇論との関連性を思うが、西部先生の天皇論は、三島由紀夫先生や日本浪曼派の天皇論とは決して同じではない。西部先生は自ら「天皇制擁護論者」を自認し、「天皇制崇敬者」であることを公言してはばからないが、西部先生は日本における天皇の役割について、「聖と俗の両義性を有した観念制度」、「その虚構が歴史的に持続してきたため、天皇制はこの列島において一つの安定した文化制度として定着しているのである。」と定義している。そして西部先生は三島由紀夫先生や二・二六の青年将校らの天皇観には距離を置いているように見えるが、誰よりも皇室の安定と存続を重視する点で、絶対的国体護持論者といってよいであろう。またいわゆる戦後民主主義者が唱える「象徴天皇を『単なる』象徴とみる」戦後憲法下の天皇観を「度し難い知的な混濁である」と指弾する。西部先生の天皇論は、右翼・民族派からは観念的転向者の物足りない天皇護持論とみなされ、一方左翼からは天皇制に拝跪した転向者と批判される。
 
本書の中でも西部先生は言及されているが、戦前の佐野学や鍋山貞親ら共産主義者の転向も、決して権力の弾圧に屈して転向したのではなく、佐野や鍋山らは「一般の日本人における強い天皇崇敬のことに彼らは気づいたのである。」と認め、それを「内なる声」による転向としている。私達が日学同時代から憂国忌創設にいたるまでご指導を頂いた林房雄先生も、戦前治安維持法違反で検挙された共産主義運動の闘士であったが、その林房雄先生もコミンテルン・テーゼの誤謬に気づき、階級と民族の思想的煩悶を通じてやがて日本的なるものへの回帰に至ったとおっしゃっておられた。
 
西部邁先生は興に乗ると「海ゆかば」や「大楠公の歌」(桜井の別れ)を愛唱された。「海ゆかば」はいうまでもなく、「大君の辺にこそ死なめ」という大伴氏の決意(言立)をうたった万葉の古歌であり、「大楠公の歌」は湊川の戦いに臨む楠木正成がわが子正行を河内に還す場面を歌った歌であり、いずれも尊皇絶対と君臣一体の日本武人の伝統をあらわす名歌、名曲である。西部先生の日本人としての心情がどういうものであったのか、その本質がいずこにあったのか、言を俟たないであろう。