contribution寄稿・コラム
追悼 西部邁さん 価値の相対主義と一元化に抗し続けた人 三浦小太郎(評論家)
追悼 西部邁さん
価値の相対主義と一元化に抗し続けた人
三浦小太郎(評論家)
西部邁氏が自ら命を絶った。「戦後」と生涯をかけて戦い続けた人だった。単に左翼とだけではない。西欧近代が生み出した世界の一元化と、それと同時に生じた価値相対主義(この二つは矛盾しているようで表裏一体のものなのだ)、この二つに、おそらく少年時より本能的に反発を感じ、この潮流は、人間が「文明」として作り出してきた伝統と歴史をすべて破壊してしまうことを絶望と共に受け止めていた人だった。
西部氏は東京大学在学当時、ブントこと日本の新左翼団体、共産主義者同盟のメンバーだったことはよく知られている。しかし、この団体が、戦後民主主義に対する、左の側からの最初の対抗勢力であり、少なくとも彼らの自覚的なメンバーの意志は、日本共産党や当時の進歩派知識人の「平和と民主主義を守れ」「米軍基地反対」といった理念とは全く異質のものだったことはいかに強調してもしすぎることはない。西部氏にとっても、この安保闘争とは、日本の戦後体制がいよいよアメリカとの思想なき連携の中で完成されていくことへの、直接行動による異議申し立てだった。その戦いが完全に敗北し、その後、新左翼そのものが否定していたはずの戦後体制の最左派、ある種の体制補完勢力化していく過程で、西部氏は運動を去っていった。その後、西部氏は経済学を専攻、初期思想の集大成というべき『ソシオ・エコノミックス 集団の経済行動』 中央公論社)を1975年に発表する。
実は本書は、西部氏の著作中最も重要なもののひとつである。本書は60年代から70年代にかけてラディカル・エコノミクスと言われた、マルクス主義の新解釈を通じて、当時のベトナム戦争、公害問題、社会問題などを経済学の中である種の社会変革理論としてうちたてようとした思想を根本的に批判している。同時に古典派経済学や近代経済学の問題点をも指摘し、経済学と社会学を結びつけようとした試みであり、経済が社会の有機的システムと切り離して存在することの危険性が説得力ある筆致で説かれている。後の新自由主義やバブル経済を預言的に批判した書でもあり、グローバリズムが批判される今こそ、読み返すべき重要な著作といえよう。
その後『大衆への反逆』(文藝春秋1983年)『生まじめな戯れ 価値相対主義との闘い』 筑摩書房84年)『貧困なる過剰 ビジネス文明を撃つ』(日本経済新聞社1987年)当の著作で西部氏が展開していったのは、大衆社会批判と、同時に当時「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の夢に浮かれていたバブル時代の経済優先主義への批判だった。それは西部氏からすれば、戦後が左右の思想をひたすら解体させ「価値の多様化」の名のもとに、すべての価値観を相対主義化していくことが、結局、消費資本主義と豊かな生活が社会の目指すべきシステムなのだというまずしい世界観しか生みだし得ないことへの徹底的な拒絶の姿勢だった。直接行動を行わなかっただけで、西部氏は戦後的価値観との戦いをこの時代決して捨てることのなかった数少ない思想家だったのである。この時期「大衆への反逆」などで展開された西部氏の田中角栄への「思想的弁護論」は、現在の表面的、政治的な角栄再評価よりはるかに深いものを提示しており、後に「小泉改革」によって解体されていく自民党政治の本質を考えさせられるものがある。
西部氏はその後、これらの思想的基盤を政治情勢の中で具体的に説き、また、「改革」という名における安易な破壊主義、単なる資本主義的合理性が社会を席巻し、議会制民主主義のシステムが徹底され政治手続きが透明化されればそれで社会問題は解決しうるという、マルクス主義同様の一元的な社会観を批判し続けた。西部氏にとって、それは左翼思想と何ら変わらぬ設計主義にすぎなかった。だが、西部氏はここで、かっての福田恒存氏や田中美知太郎氏、また小林秀雄氏のように、伝統や日本文化をそれに代わる価値観として持ち出すことには常に慎重であった。
「伝統とは荒馬を乗りこなす知恵」というのは、しばしば西部氏が引用したチェスタートンの言葉だが、西部氏にとって伝統とは、簡単に立ち返ることができる実体的な場所ではなく、左右いずれであれ、あらゆる設計主義や「改革」「革命」といった理念をすべて否定した上で成り立つ、「革命」よりもはるかに過激な精神の在り方であり、いかなる世論にも迎合せず己の孤独な精神が一人立つための、戦場における孤独な塹壕でなければならなかった。皇室伝統をよりどころにする日本の伝統ナショナリズムや、議論や言葉の定義よりも「言霊」を重んじ「言挙げせず」といったある種の「境地」への安定を求める神道への指向を、西部氏ほど否定した『保守』は少ない。三島由紀夫への愛憎半ばする思いも、おそらく西部氏のこの態度と無縁ではなかっただろう。
西部氏は戦後民主主義の、安易な「世界平和」の理念を偽善として退けた。それは、非武装中立などあり得ないといった政治的判断ではない。平和が至上の価値であり、争いや対立がないことが幸福なのだという思想そのものを堕落としかみなせなかったのだ。同様に、西部氏はおそらく、最近の保守派の言説にも、もちろん、眼中にほとんどなかったであろう私のそれも含めて、怒りと絶望しか覚えなかっただろう。しかし、そのことはここではこれ以上書くまい。私自身に向けられた怒りと批判にこたえるのは、私が生涯をかけて行うことである。
西部氏の初期著作「大衆への反逆」に「不良少年U君」というとても味わい深いエッセイがある。それは後年『友情 ある半チョッパリとの四十五年』筑摩書房 2005年)という西部氏の自伝的著作として結晶した。在日朝鮮人として生まれ、暴力団として生きていくしかなかった友人のことを、これほどの愛情と共感を持って描く『保守派知識人』はこれまでもこれからも現われまい。この友人もまた、あまりにも過酷な出生の中、戦後という時代に拒絶され、その運命を引き受けて生涯戦い続けた、西部氏にとっての「戦友」だった。西部氏は生涯、この「不良少年」の心を失わなかった人だった。
「誰のことも恨んじゃいないよ でも大人たちに褒められるような馬鹿にはなりたくない」(少年の詩 甲本ヒロト)
「大人」とは、西部氏にとって戦後という時代そのものだった。その時代は今も続いている。