columnコラム
孤忠留魂之碑参拝記 三澤浩一
孤忠留魂之碑参拝記
三澤浩一
一億慟哭の昭和20年8月15日より72年となる平成29年ですが、本年も孤忠留魂之碑を参拝いたしました。
孤忠留魂之碑は、大東亜戦争降伏時に「屈伏和平」に反対して「本土決戦一撃和平」を唱え所謂「宮城事件」を主導した陸軍将校、椎崎二郎中佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)、畑中健二少佐(陸軍省軍務局軍務課内政班)、古賀秀正少佐(近衛師団参謀)、上原重太郎大尉(陸軍航空士官学校区隊長)の四士の慰霊碑であり、東京都港区愛宕の青松寺に建っています。
本年は独りではなく、荒岩宏奨さん、桂田智司さんと雅さんの父娘、北畑博さん、久保田英之さん、松澤正明さんとともに、8月13日に参拝することができました。
志を同じくする方々と参拝できましたことは、洵に嬉しく、心強い限りです。
当日は孤忠留魂之碑だけではなく、旧山口藩出身御親兵死没者合祀之碑、肉弾三勇士の像(お一人のみになっています)など、隣接しながら建っている多くの慰霊碑にも当然ですが、それぞれ参拝いたしました。
僕が孤忠留魂之碑に初めて参拝いたしましたのは、二十数年前となります。
我が母校、拓殖大学の理事長を勇退された椋木瑳磨太先生のお供をしてでした。
椋木先生と2人で、たしか8月14日だったと記憶していますが、孤忠留魂之碑をはじめ、現在の防衛省の敷地など都内各地にある慰霊碑を巡拝いたしました。
椋木先生は畑中少佐と同じ明治45年のお生まれで、よく「畑中」「畑中」と懐かしげに話されておられました。
大川周明博士の高弟であられた椋木先生は、憂国の熱誠あふれる方々と緊密な同志であられたのだろうと、拝察いたします。
椋木先生より48歳と年少の僕に大切なことを伝えていただきました。
また、拓殖大学海外事情研究所所長をつとめられた吉原政巳先生は畑中少佐の陸軍の先輩です。
吉原先生は陸軍士官学校44期、畑中少佐は46期となり、宮城事件のときも緊密な関係にあったと聞きます。
吉原先生は陸軍士官候補生のときに5・15事件に参加され、宮城事件のときは陸軍中野学校の教官の職にあられ、畑中少佐が最も尊敬する人物の1人といわれています。
吉原先生も懐かしそうに畑中少佐の人柄など思い出を語ってくださいました。
今では貴重な経験だったと、両先生には感謝いたしております。
畑中少佐たちも、対する鈴木貫太郎内閣総理大臣たちも、それぞれが国体を護ろうと真剣に立ち向かわれたと敬意を表するだけで、その是非は述べません。
余談となりますが、当時の陸軍大臣であられた阿南惟幾大将のご子息であられ、靖国神社の総代でもあられる阿南惟正先生が、青松寺の総代を以前お務めになられていたことを知りました。
阿南家のお墓は多磨霊園にございますが、法要などは青松寺が執り行うそうです。
阿南先生は拓殖大学の理事であられ、拓殖大学後援会の会長でもあられますから、青松寺には親近感が湧きました。
孤忠留魂之碑は、畑中少佐たちの至誠を後世に伝えるものと存じます。
1人でも多くの方に知っていただきたいと存じ、ご紹介いたしました。
椋木先生が僕に教えてくださったのも、そのためだったと確信いたします。
孤忠留魂之碑ですが、青松寺本堂裏にある愛宕山の墓地に建てられています。
昔の青松寺を知る方は戸惑うぐらい大きく変わっており、碑が建っている場所も移っています。
山を登ると墓地の門が2ヵ所ありますが、そこにはお花やお線香を取り扱うお店もありますから、お尋ねになるとよいでしょう。
墓地が分からない場合もあるでしょうから、寺務所でお尋ねすれば間違いないと存じます。
ただし、原則としては檀信徒さんしか墓参はできませんから、あらかじめ青松寺の許可を得る必要があります。
御寺は信仰や修行の場であり、墓地は追悼や慰霊の場と考えます。
観光の場ではありませんから、敬いと慎みは必要です。
今回は、青松寺に事情を説明いたし、墓参させていただきました。
なお下記は、孤忠留魂之碑に記されているものですので、ご紹介いたします。
【表面】
國體護持 孤忠留魂之碑
【裏面】
[上段]
陸軍中佐 椎崎二郎
陸軍少佐 畑中健二
陸軍少佐 古賀秀正
陸軍大尉 上原重太郎
[下段]
大東亜戦争終結に際し 護るべからざる講和条件即ち国体護持の確認こそ日本国民の果たすべき責務なりとし 上記四士は畑中健二主導のもとに近衛師団の決起を策し 大事去るや従容自決す これ宮城事件なり
その孤忠留魂の至誠は神州護持の真髄といふべく 仰いで茲にこれを継述せんとするものなり
昭和五十九年秋 有志建之
なお、写真は畑中健二少佐です。