rekidai「歴代天皇の詔勅謹解」

歴代天皇の詔勅謹解 第九回「第十六代仁徳天皇・第十七代履中天皇・第十九代允恭天皇の詔勅」 御所市議会議員 杉本延博

  今回は、第十六代 仁徳天皇、第十七代 履中天皇、第十九代 允恭天皇の詔勅を謹解してまいります。

 

○第十六代 仁徳天皇

○百姓の窮乏を察し郡臣に下し給へる詔 四年二月六日 『日本書紀』

朕高臺に登りて望むに、烟氣域中に起たず。以爲ふに百姓既に貧しくして、家に炊く者無きか。朕聞く、古の聖王の世には、人々詠徳之音を誦げて、家々康哉之歌有り。今朕億兆に臨みて、於茲三年。頌音聆えず、炊烟轉疎なり。即ち五穀登らず、百姓窮乏しからむを知りぬ。封畿之内すら尚給がざる者有り。況や畿外諸國をや。

 

 仁徳天皇は、難波の高津宮でまつりごとを執り行われました。その高殿から平野を一望なされたところ民の家々から炊煙があがっていませんでした。これは畿内だけではなく諸国で国民が困窮しているのではないだろうかと御心配あそばされた御心を仰せになられた詔であります。

 詔の大意は「私が高台に登って遠くを望むと、まわりに煙が上がっていない。これを見て思うことは、国民が貧しくなっており、家でご飯を炊く者がいないからであろう。私が聞いたところによると、古の聖王の時代に、国民は徳を詠う音を出し、家ごとには安らぎの歌があったということである。今、私は億兆に君臨して、ここに三年になる。頌める声が聞こえず、飯を炊く煙が疎らである。そこで、五穀が、みのらず百姓は窮乏していると知った。畿内の国ですら、なお給らない者がある。ましてや畿外の諸国では。」であります。

 

○三年の間課役を除き給ふの詔 四年三月廿一日 『日本書紀』

今より以後、三載に至るまで、悉く課役を除めて、百姓の苦を息へよ。

 

 国民の窮乏を救うための救済策として、三年間の課役を免除するよう仰せになられた詔であります。

詔の大意は「今より以後、三年間は、全ての課役を除いて、国民の苦しみをとり除くようにせよ。」であります。

 

○百姓の富めるを喜び給ふの詔 七年四月一日 『日本書紀』

朕既に富めり、豈愁有らむや。

烟氣國に滿てり、百姓自ら富めるか。

其れ天の君を立つることは、是れ百姓の爲なり。然らば則ち君は百姓を以て本と爲す。是を以て古の聖王は、一人も飢ゑ寒れば顧みて身を責む。今百姓貧しきは則ち朕が貧しきなり。百姓富めるは則ち朕が富めるなり。未だ百姓富みて君の貧しきこと有らず。

 

 三年間の課役の免除が功を奏し、家々から炊煙があがり、国民の生活も安定を取り戻したことに仁徳天皇は、おおいにお喜びになられました。しかし高津宮の状況は、宮殿の屋根が破れて雨が漏れ御衣が濡れてしまうような状態でありました。このような状況であるのに「なぜ富んでいると仰せになるのでしょうか」とお尋ねの皇后にお答えになられたのが、この詔であります。

 詔の大意は「私はすでに富んだのだ。もはや心配することはない。」「煙が国中に満ちた。国民はおのずと富んだであろう。」「天が君を立てるのは、国民のためである。そこで君たるものは、国民をもって本とする。こういうわけで、古の聖王は、一人でも飢えて寒さに凍える者があれば、我が身を責めて反省したのである。いま国民が貧しければ、とりもなおさず私も貧しい。国民が富めば、すなわち私も富んでいる。国民が富んで君が貧しいということは、未だかつてあったことはないのである。」であります。

 

○難波の堀江を開鑿し給ふの詔 (謹抄)十一年四月十七日  『日本書紀』

群臣共に視て、横源を決りて海に通し、逆流を塞ぎて、以て田宅を全うせしめよ。

 

 難波の地理的条件を改善して、国民の生業を安定させるよう仰せになられた詔であります。

 仁徳天皇は、堀江に運河を建設したのをはじめ、茨田堤を築くなど国民の生業向上に寄与なされたのでありました。

 詔の大意は「今、私がこの国を視てみると、平野は広遠だが、田畑は少なくて乏しい。また川の水が横に流れ、流の末は早くない。少しでも長く雨が降ると、海潮がさかのぼって、村里は浸水して船に乗ることになり、道や路も泥に埋まってしまう。だから群臣は共に実情を視て、横に流れる源を堀にえぐって海に通し、海潮の逆流を塞いで、田宅を安全にせよ。」であります。

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