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【論説・コラム】死の到来を意識し続けた50歳の日々
※イメージ画像
昨年5月、50歳の誕生日を迎えた。40歳なら不惑、満60歳なら還暦というメモリアルな呼称がある。四捨五入すれば100歳になる分水嶺なのに、なぜか50歳には有名な呼称がない。
しかし、自分にとって50歳の通過点は精神的にも体力的にも大きな転換点だった。信長は49、ナポレオン・ボナパルトは51。大業を為した歴史的人物の多くがその前後に鬼籍に入った。
無論、若くして亡くなった有名人も数多く存在する。27歳で病に倒れた明治維新の立役者・高杉晋作や、32歳で還らぬ人となった大陸征服者・アレクサンドロス大王など20代や30代で没した大変革者も数多くいる。そうした人々をひっくるめて、「人間50年」が人類史における世の習いであり、持ち時間で考えた場合の私の人生は「終わった」と思った。
幸いなことに、戦後の高度成長期に命を頂いた私の持ち時間は、平均的にはまだ30年ほど残されている。生物には環境適応能力が備わっている。「慣れる」ということに慣れ過ぎてしまう私たちは、まだ残されている時間をなんとなく永遠に続くかのように仮定してしまうところがある。だが俯瞰して考えれば、成長期の20年を過ぎた段階で人生の核のような部分は終わり、その成果や才能の発揮段階である残り30年程度で、運や偶然を含む個々のポテンシャルは出し尽くされると見たほうがいい。
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