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「仏国土」としての「国体」(一) ―人格的共存共栄を如何にして実現するか 里見日本文化学研究所所長 亜細亜大学非常勤講師   金子 宗德

 序に代へて ―― 里見岸雄博士の「生命」観

 昭和四十九年四月十八日に里見岸雄博士(以下、敬称略)が大寂せられてから、本年は五十回忌の節目に当たる。

 里見の学業は多岐に亘るが、その根幹に位置するものが日蓮学と日本国体学であることはいふまでもない。それらは学的営為として独立してをり、前者を仏教思想史の一つとして、後者を国体思想史の一つとして扱ふことが可能である。近代日本思想史の研究者として後者に関心を懐いた筆者は、その学問的展開を辿ると共に現代的可能性を探ることに努め、その成果を弊誌に執筆した諸論考、また、外部機関の研究者とともに公刊した共著の形で発表してきた。

 それらの中で、筆者は里見の日本国体学において、「生命」といふ概念が重要な位置を占めてゐることに触れてきた。

 里見は、「日本国体」について「時代社会と関連する政体並びに生活体系と区別せらるべきものであつて、日本国家の窮極的基盤たる基本社会としての民族生命体系並びにそれに随伴する精神現象の包括的概念」〔『国体学総論』〕と規定してゐる。

 ここで云ふ「基本社会」とは、歴史的に変遷して時代によつて組織内容を異にする経済社会としての「時代社会」と異なり、さうした歴史的に変化する個々の時代社会を基底で支へる実在であつて、共同生活全体を生命主体の側面に於て把握したもの。また、「生命体系」とは生命体そのものの内部的性質によつて定まる存在の根本的様式であり、人類においては、親なくして出生し存立する者はゐないといふ「親子本末的在り方」として現れ、衣食住等の必要な物質を獲得する働きたる生活のために組織された「生活体系」とは区別されるべきもの。

 これらの記述から分かる通り、里見博士は「日本国体」を考へる上で「生命」を重視してゐるが、その背景には、「生命現象こそは、世界の人類が思惟し行動する主体的根源であつて、生命体として生存してゐる人類は生命現象より一層基礎的普遍的価値を他に求めるといふことは出来ない」、「明治天皇の教育勅語に、古今不謬中外不悖と仰せられた国体価値論は、学問的操作に於ては、かくして、国体そのものの生命現象の中にその根拠を求めるべき」〔前掲書〕とあるやうに、「生命」を根本的実在とする世界観が存在する。

 里見によれば、「生命」とは「生物体に特有な性質」、「物質的或は化学的現象そのものを指すのではなくさうした現象を起こす主体を統一的且つ抽象的に指す概念」であるが、人間においては「生命」は物質に必ずしも従属するものではなく、精神によつて統御されることも少なくない。このやうに精神および物質といふ二つの要素を兼ね備へた主体としての「人間の生命」に見られる運動法則を「生命弁証法」と名付けた里見は、「唯物弁証法」に基づいて人間の行動すら物質の運動に還元しようとするマルクス主義を鋭く批判した。

 この「生命」といふ概念は、里見の日蓮学においても極めて重要なものである。若き日の里見が執筆した『甦る日蓮』(後に『吼えろ日蓮』と改題)は、当時の日蓮門下に多大なる衝撃を与へたが、その中で、法華経寿量品に説かれる久遠実成の本仏について「人間以外に、何等かの救済意志を持つて活動する個体的存在ありなどと考へるのは、実に素朴なる迷信的形而上学に過ぎない」と従来の教説を切つて捨てた里見は、法華経や日蓮遺文から本仏に関する記述を列挙し、それを分析・総合して「本仏といふも本尊といふも自然科学的に存在してゐる生命の外の何ものでもあり得ない」と結論づける。

 その上で、「生命の本質」は「それ自身をつねに愛護し建立し念々息まざるもの」であるが、さうした本質を意識し得るのは人間のみであり、だからこそ、愛護の念を自己のみならず全人類に及ぼさうとする者すなはち菩薩が一般人に比して高貴なる人格と観念され、「釈尊を仏として崇拝するとか日蓮聖人を依師として尊崇する」のだ、と里見は論ずる。 

 その詳細は同書に当たつて頂きたいが、こゝで云ふ日蓮学における「本仏」としての「生命」と、先に述べた日本国体学における「生命体系」としての「国体」とは如何なる形で結びついてゐるのか。この点について、次号より少し考へてみたい。

(つづく)