the-diet国会

武蔵野市「子どもの権利に関する条例」を巡って ―「子どもの意見表明権」が孕む危険性  金子 宗德(里美日本文化研究所所長、亜細亜大学非常勤講師)

 「武蔵野市の子どもの権利に関する条例」を学ぶ会

 本誌七月号にも記した通り、東京都武蔵野市では、「子どもの権利に関する条例」〔以下、「子どもの権利条例」〕を今年度中に制定すべく準備が進められているけれども、現状の案を見る限り、問題点が少なくない。

 この懸念は筆者のみならず一部住民の共有するところで、松下玲子市長をはじめ市当局に再考を促さねばならぬ。そのためには、幅広い住民の理解を得る必要があるけれども、外国人に対する投票権附与をはじめ問題点が明確であつた「住民投票条例」案と異なり、この条例を制定する意図が何であるか、さらには、この条例が成立すると如何なる具体的問題が生ずるか、といふ点について住民の理解が十分であるとは言えぬ。そこで、些か迂遠ではあるが、市当局が示している資料を中立的な観点から精査するところから始めねばならぬという判断に基づき、《「武蔵野市の子どもの権利に関する条例」を学ぶ会》〔以下、《学ぶ会》〕が組織された。

 《学ぶ会》の代表は、市内在住で小学校PTAの役員経験者である小松伸之氏(清和大学准教授)に御願いした。東京学芸大学の大学院で学んだ後、中学や高校で社会科の教鞭を執り、現在は清和大学のほか都内の私立大学でも非常勤講師を務めている社会科教育の専門家だ。

 

 二つの「児童の権利宣言」

 去る八月十七日、市内の吉祥寺東コミュニティセンターで《学ぶ会》の第一回学習会が開催され、小松氏が「子どもの権利と条例制定について考える」と題する問題提起を行った後、参加者と意見交換した。

 小松氏による問題提起は、「①子どもの権利について考える」、「②条例制定について考える」、「③条例制定に関わる論点整理」の三点からなるものであったが、中でも①が興味深かった。小松氏の議論をもとに、その後に知り得た情報も加えながら、現時点での理解を整理しておきたい。

 「子供の権利」という概念は、「児童の権利宣言」が採択されたことにより国際的な承認を得た。その内容は以下の通り。

 

 児童は、身体的ならびに精神的の両面における正常な発達に必要な諸手段を与えられなければならない。

 飢えた児童は食物を与えられなければならない。病気の児童は看病されなければならない。発達の遅れている児童は援助されなければならない。 非行を犯した児童は更生させられなければならない。孤児および浮浪児は住居を与えられ、かつ、援助されなければならない。

 児童は、危難の際には、最初に救済を受ける者でなければならない。

 児童は、生計を立て得る地位におかれ、かつ、あらゆる形態の搾取から保護されなければならない。

 児童は、その才能が人類同胞への奉仕のために捧げられるべきである、という自覚のもとで育成されなければならない。

 

 一読すればわかる通り、子供は「保護育成」の対象とされている。

 第二次大戦後の一九四八年、国際連合は「世界人権宣言」を採択する。これには子供に関する条項はないが、第六条に「すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する」とあり、子供も権利主体であることが含意されている。

日本が国際連合に加盟したのは昭和三十一年(一九五六)であるけれども、その三年後の昭和三十四年(一九五九)に国際連合は「児童の権利宣言」を採択した。そこには「児童は、この宣言に掲げるすべての権利を有する。すべての児童は、いかなる例外もなく、自己又はその家庭のいずれについても、その人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位のため差別を受けることなく、これらの権利を与えられなければならない」(第一条)、「児童は、特別の保護を受け、また、健全、かつ、正常な方法及び自由と尊厳の状態の下で身体的、知能的、道徳的、精神的及び社会的に成長することができるための機会及び便益を、法律その他の手段によつて与えられなければならない。この目的のために法律を制定するに当つては、児童の最善の利益について、最高の考慮が払われなければならない」(第二条)とあり、ここに児童が「権利主体」であることが明確に確認される。

 ただ、そこで謳われている具体的権利は、「出生の時から姓名及び国籍をもつ権利」(第三条)、「社会保障の恩恵を受ける権利」(第四条)、「心身などの障害に対して適切な治療・教育・保護を受ける権利」(第五条)、「両親あるいは然るべき養育者の下、愛情と道徳的及び物質的保障を受けて育てられる権利」(第六条)、「社会の有用な一員となるべく、教育を受け、遊戯などに興じる権利」(第七条)、「優先的に保護および救済を受ける権利」(第八条)、「虐待・搾取・人身売買・児童労働から保護される権利」(第九条)、「人種的・宗教的その他の形態による差別を受けない権利」(第十条)であり、「適切に保護され、愛情を以て育成される権利」という色彩が強い。

 

 我が国における「児童の権利」

 こうした国際的な潮流に合わせる形で、日本においても、昭和二十二年(一九四七)に制定された。その総則には「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない」、「すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない」(以上、第一条)、「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う」(第二条)と定められており、児童は「保護育成」の対象として位置づけられている。

 そして、昭和二十六年の五月五日に「児童憲章」が制定された。

 

 前文(略)

 

一 すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。

二 すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもって育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。

三 すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。

四 すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。

五 すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。

六 すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整った教育の施設を用意される。

七 すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。

八 すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように、十分に保護される。

九 すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、悪い環境からまもられる。

十 すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取扱からまもられる。

   あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。

十一 すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不充分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。

十二 すべての児童は、愛とまことによって結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。

 

 ここに掲げられている十二箇条は「保護育成」の具体的な方向性を示すもので、その内容は妥当である。

 

 悪用されかねない「子どもの意見表明権」

 「児童の権利宣言」が出されてから三十年目にあたる一九八九年、「児童の権利条約」が制定された。これは、「世界人権宣言」や「児童の権利宣言」に加えて一九六六年に採択された「国際人権規約」の内容も踏まえて策定されたもので、その内容は極めて広範だ。

 この「児童の権利条約」には、次のような条項がある。

 

第十二条

1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。

 

 児童は自己に関連する事項について意見を表明する権利を有し、発達段階を考慮しながら相応に考慮すべきという内容で、これ自体は決して不穏なものではないが、この条文を日教組や共産党など左派勢力が悪用しようとする。

 鳥居徹夫氏(元文部科学大臣秘書官)がWEBニュースサイト《TOKYO EXPRESS》に寄稿した「文部科学省とは一体的だが、 連合内では浮いている日教組‼」によれば、日教組は発達段階に関する部分を無視して「子どもの意見表明権」が全面的に認められたと強弁し、「子どもを従来の保護の対象から権利の主体へと、子ども観のコペルニクス的転換がみられる」(傍線筆者)と主張したというのだ。

 このような主張が罷り通った暁には、鳥居氏が危惧しているように、「『入口は子どもの人権、出口は日の丸・君が代反対』の運動への歪曲や、さらには徒党を組んだ(中国の文化大革命のときの)紅衛兵騒動の高校版、中学校版を煽動するかのような主張や運動」がなされ、「左翼イデオロギーに染まった児童・生徒と、左翼教師との結託による『恐怖の学級運営』」が横行することは火を見るより明らかだろう。

 なお、鳥居氏によれば、日教組は「児童の権利条約」ではなく「子どもの権利条約」という表現に強く拘っていたという。児童福祉法や児童憲章を上げるまでもなく、法令上では一八歳未満は「児童」とされており、それとの整合性で云えば、「児童の権利条約」の方が適切である。

 日教組が拘った理由について鳥居氏は触れてゐないけれども、「子ども観のコペルニクス的転換」の象徴として、保護育成の対象というイメージの強い「児童」に代わって「子ども」という表現を用いたように思われる。

 いずれにせよ、「子どもの意見表明権」議論には警戒しなければならない。