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「日本を取り戻すとは、憲法と軍隊を取り戻すことだ!」 西村眞悟
令和四年七月八日午前十一時半、奈良市の近鉄大和西大寺駅前で、参議院選挙の応援で街頭演説を始めた直後の安倍晋三元総理が、銃撃され、同日午後五時三分に、緊急搬送された奈良県立医大付属病院で死亡が確認された。銃弾は、安倍元総理の心臓を破っていた。
銃撃直後に、その遭難を知り、死ぬなよ!と念じた。しかし、夕刻に死亡確認の報に接した。そのとき、長州人という彼の出自から、長州の先輩の伊藤博文公(一八四一年~一九〇九年)が、ハルピンで銃撃され死亡したことを思った。そして、このとき、伊藤と同じ長州人として幕末と維新の死線を潜って共に生き抜いた井上馨が、「伊藤は、幕末の志士のように死んだ」と羨んだことを思い起こした。まことに、安倍晋三元総理(一九五四年~二〇二二年)も、戦場の兵士のように、ハルビンの伊藤博文と同じ歳で亡くなった。従って、同じように銃撃で亡くなったアメリカのJ・F・ケネディ大統領が、戦死した兵士が眠るアーリントン墓地に眠るように、安倍晋三元総理も、靖國神社に祀られる護国の英霊とともに生きるであろう。
さて、志のある政治家は、ラグビーにおけるフォワードの選手がボールを抱えて敵陣に突入し、倒れる時にそのボールを仲間に託してゆくように、倒れると同時に「国家の課題」を生きる者に渡してゆく。よって、ここで、安倍晋三元総理が、兵士のように亡くなる時に、我らに託した死活的に重要な「国家の課題」に付いて記すことにする。
安倍晋三元総理は、政権に復帰する為の平成二十四年十二月の衆議院総選挙において、「日本を取り戻す」そして「戦後体制からの脱却」という国家目標を掲げた。そして、総選挙に勝利して政権に復帰して、初めて迎えた平成二十五年四月二十八日に、憲政記念館において天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、政府主催の「主権回復を祝う会」を開催したのだ。
即ち、我が国は、昭和二十年九月二日のアメリカ戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印から、サンフランシスコ講和条約発効までの間、国家の主権は剥奪されて連合軍の占領下に置かれていたが、講和条約が発効した同二十七年四月二十八日に主権を回復した。従って、政権に復帰した安倍晋三総理は、平成二十五年四月二十八日に、前記の通り、公式に政府が主催して「主権回復を祝った」のだ。
この会において主催者として挨拶に立った安倍総理は、敗戦による占領下に置かれた国民を励ます為に昭和二十一年正月の歌会始めに詠まれた昭和天皇の御製、
降りつもる 深雪に耐へて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ
を朗唱し、込み上げる嗚咽に声を詰まらせたのだ。
そして、この時、安倍総理は、現在、益々、日本の再興の為に死活的に重要になりつつある国家的課題への回答を、同時に明確に語っていた。つまり、「日本を取り戻す」とは何か。「戦後体制からの脱却」とは何か。この回答を、安倍総理は我が国の主権回復を祝うことで明らかにしていたのだ。
つまり、「日本を取り戻す」とは、我が国に主権が無い時に奪われたものを回復し、押しつけられたものを廃棄することだ。即ち、主権が無い時に奪われたものとは、大日本帝国憲法・旧皇室典範であり帝国陸海軍即ち国軍・軍隊ではないか!また、主権が無い時に押しつけられたものとは、日本国憲法・皇室典範であり教育基本法ではないか!さらに、「戦後体制からの脱却」とは、我が国に主権が無い時に作られた国家体制からの脱却に他ならない。
以上の通り、既に答えを安倍晋三総理が出している。しかも、本年二月二十五日のロシア軍のウクライナ侵攻によって明らかになったことは、明治の日清戦争直後にロシアと清国との間で結ばれた対日攻守同盟が、現在のロシアと中共の間にも存在するということだ。
従って、我が国が、「日本国憲法」がいう「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」今まで通りに打ち過ぎるならば、早晩、ロシアは、突如、我が国の北の北海道を奪い、同時に、中共も素早く我が国の南の沖縄を奪い、我が国は南北から中露に侵略され国家としての機能を失い、亡国に至る。
問題は、我らが、安倍総理が提起した問題への回答を明確に出して、戦後体制から脱却するか否かだ。ここで、我が国の存亡が定まる。
岸田総理よ、安倍晋三元総理の国葬儀の前に、安倍元総理が掲げた「日本を取り戻す」そして「戦後体制からの脱却」に関する先に記した具体的な実践を開始し、国葬の場で安倍元総理と国民に報告せよ。