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プーチンのウクライナ侵攻を止める方策は、 直ちに我が国が、千島と樺太に攻め込んで領土を奪還することだ   西村眞悟

先日、テレビのニュース解説でウクライナ戦争に関し、ロシアは毒ガス兵器使用禁止条約に署名しているのでウクライナで毒ガスを使わないと思うという解説があった。そこで私は自分のFBに、古くから言われている次の格言を挙げて、ロシアが、条約を締結しているから、その条約を守るだろうと考えるのは間違いであると書いた。その格言とは、十九世紀から言われているもので、次の通り。

「ロシア人は、約束は破るものだと思っている。」

「支那人は、そもそも約束は守るものだとは思っていない。」

 すると、翌日、私のコンピューター画面に、「この発言はフェイクにあたるので削除する」というメッセージが表示され、FBの画面から、私が書いた原稿が消えていた。

現在の我が国の言論空間において、日常では使わない意味が解りかねる「フェイク」という言葉を道具とした検閲が広がりつつある。これは、何者かによる静かな巧妙な言論統制であり静かな侵略である。要注意だ。その上で、前記の古くからの格言は、真実を言い当てていて、この両国に隣接する我が国にとって必要な格言なので、ここに再び記した次第だ。

 ところで、アメリカの国防省・ペンタゴン筋は、ロシア軍のウクライナ侵攻の前には、ロシア軍の侵攻開始から三日で、ウクライナの首都キーフは陥落してロシア軍の掌中に入ると言っていた。しかし、その予測は見事に外れた。ロシア軍侵攻開始から五十日経っても首都キーフは陥落せず、ロシア軍は攻撃の焦点をクリミア半島の北東部に絞る為に、キーフ攻撃部隊を東部に移動させたと報道された。

しかし、現在(4月20日)、クリミア半島の北東にある要衝マウリポリや北部のベルソンは陥落していない。また、TVの映像には、ロシア軍の焼けた戦車の残骸が度々放映され、ウクライナ軍の反撃が功を奏していることがうかがえる。さらに、ウクライナ軍が驚異的な頑張りをみせており、ロシア軍は士気が低く苦戦しているという情報もある。結局、ウクライナ・ロシア両軍が衝突している前線の状況は、判らない。

そこで、一九三九年(昭和十四年)五月から九月にかけて、ソ連(ロシア)と我が国が、満・蒙国境付近で戦ったノモンハン事件を振り返ることも有益かと思う。「自分の損害を全く公表しないというロシアの癖」と、ロシアが他国との条約を如何に利用するのかという見本があるからだ。

一九三九年(昭和十四年)五月から九月、日ソ両軍は、満州とモンゴルの国境線を巡ってノモンハンで全面衝突した。日本軍の兵力は、熊本の新設師団である第二十三師団(師団長 小松原道太郎中将)約二万、ソ連軍兵力は、後にドイツとの大祖国戦争の参謀総長を務め元帥となるゲオルギー・ジューコフ将軍率いる戦車と航空機を主体とするスターリン自慢の機械化部隊二十三万である。

開戦前に、もし、この日ソ両軍を見た第三国の将官ならば、この度のロシア軍のウクライナ侵攻前と同じように、三日間でソ連軍の圧勝で決着すると判断しただろう。しかし、現実は、戦争は五月から六月までの第一次と六月から九月までの停戦合意までの第二次と続き、日本軍死傷者一万八千人、ロシア軍死傷者二万五千六百人である。即ち第二十三師団は潰滅したのだ。

しかし、彼ら第二十三師団将兵は、ロシア軍二十三万の機械化部隊を壊滅させている。それは、次の、日本軍に破壊されたソ連軍の戦車と航空機の数を見れば明らかである。ソ連軍の戦車八百台が破壊された。これに対し、日本軍の戦車損害二十九台。ソ連軍の航空機一六七三機が撃墜された。これに対し、日本軍の航空機損害一七九機。特筆すべきは、八月二十七日に墜落して戦死するまでに、一人でソ連機五十八機を撃墜して「ホロンバイルの荒鷲」、「東洋のリヒトフォーフェン」と言われた篠原弘道少尉(二十六歳)である。彼は、五月二十八日に、「演習では殉職者が出るほど猛烈にやるのに・・・戦闘なんてまったく普通の演習より楽だ」と語っている。つまり、日本軍パイロットの猛練習で習得した技量のレベルの高さはダントツだったのだ(福井雄三著「世界最強だった日本陸軍」)。このこと、陸軍航空隊において篠原少尉の二年先輩で同じ満州の空で猛訓練を続けていた我が叔父東儀正博の為にも記しておきたい。

以上が、第二十三師団がノモンハンで、文字通りの決死の戦闘で挙げた、スターリンを震え上がらせたソ連軍機械化部隊壊滅の戦果である。しかし、その自らの命と引き換えに成し遂げた第二十三師団の世界史を変える戦果を知らず、二十三師団潰滅に腰を抜かしたのが東京の参謀本部である。そして、八月下旬、東京の参謀本部は十万人の増援部隊をノモンハンに送り込む決定をする。

この日本軍、十万人増強の報に接し、日本軍二万人に自慢の機械化部隊を壊滅させられたスターリンは、さらに焦るように日本軍との停戦を急ぎ、九月十五日に日ソ停戦協定が成立する。

同時に、スターリンは東のノモンハンで自慢の機械化部隊苦戦の報に接してから、西からドイツがソ連領に攻め込んでくる恐怖に駆られるようにドイツとの不戦条約締結交渉に入る。そして、一九三九年(昭和十四年)八月二十三日に成立したのが、独ソ不可侵条約(モロトフ・リッペントロップ協定)だ。

我が国の平沼内閣は、この独ソ不可侵条約に驚き、「欧州の情勢は複雑怪奇」との声明を発して総辞職するが、この条約は、実はノモンハンで戦う我が軍の第二十三師団の将兵の驚くべき強さがスターリンに締結させたものであり、我が内閣は、鑑に映る自分の姿に驚くように、「ノモンハンの日本軍が創り出した独ソの条約に驚いた」ことになる。

次ぎに、八月二十三日の独ソ不可侵条約締結の八日後の九月一日、ドイツはポーランドに侵攻し、英仏両国はドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まる。その時スターリンも、東のノモンハンにおける九月十五日の日本との停戦協定成立を待って、その二日後の十七日に、ポーランドに東から抜け目なく侵攻したのだ。

このように、独ソ両軍は一九三九年秋以降、ポーランドの真ん中で相接することになった。これは、即ち、独ソ開戦必至ということだ。よって、スターリンは、この独ソ戦を予想した上で、東の日本との中立条約締結交渉を進め、同条約が、一九四一年(昭和十六年)四月二十五日に発効するや、シベリア管区軍と極東軍を東から西に移動させることに成功する。

他方、ドイツのヒトラーは、一九四〇年五月からの西方への電撃作戦によるフランス作戦の後には、進撃開始から四ヶ月でモスクワを陥落させるバルバロッサ作戦を立案し、一九四一年六月二十二日にそれを発動して、北のレニングラード、南のウクライナそして中央のモスクワの三方面に向かってロシアにドイツ軍を雪崩れ込ませた。

この時、イギリスの首相であったチャーチルは、独ソ戦が開始されたこの時、東から日本がソ連に進撃しておれば、日本が勝利者となった、と回想している。即ち、この時、ソ連を救ったのは日ソ中立条約を守った東の日本だったのだ。そして、四年後の夏、スターリンは、日ソ中立条約を破って満州、樺太そして千島に雪崩れ込んできた。仮に六年前にノモンハンの日本軍が、スターリンにソ連軍機械化部隊を壊滅させて日本軍の強さを見せつけていなかったら、スターリンの日ソ中立条約廃棄はもっと早く、北海道まで、いや東北までもソ連軍が侵攻していたであろう。ノモンハンで潰滅した日本軍第二十三師団二万の将兵が六年後の日本を救ったのだ。

さて、以上のソ連の動きを見て言えることは、ソ連が一番恐れていることは、ユーラシアの東西両面で日本とドイツから同時に攻め込まれることだ。その為に、ソ連のスターリンは、条約を駆使して、それを日本に守らせながら自らは平気でそれを破って利を得てきたのだ。

そこで最後に、このソ連即ちロシアのユーラシアの東西両面で戦争することを本能的に嫌う性行を見て、ソ連のKGB出身のエリートであるロシア大統領のプーチンに、直ちにウクライナとの戦争を中止させる為の効果的な方策を提示しておく。それは、我が日本が、突如、スターリンに奪われた領土を取り戻す為に、千島列島と樺太に攻め込んでロシア軍を追い払うとともに、ウラジオストックを占領し、沿海州に攻め込む構えを見せつけることだ。これから、さらに厳しくなる国際情勢においては、我が国も、直ちに、このような軍事的侵攻を実施できる軍備を保持し運用することが必要である。