shohyo「書評」
戦後文学としての石原慎太郎 三浦小太郎(評論家)
私にとって石原慎太郎氏は何よりも文学者でした。特に素晴らしいと思ったのは初期の小説「ファンキー・ジャンプ」。モダンジャズの文学化(いや、文学のジャズ化というべきか)として、日本ではこれ以上のものを知りません。殺人を犯し、ヘロインにおぼれながら素晴らしい演奏をするジャズピアニスト、という、下手をすれば通俗小説になりかねないテーマを、文体と言葉のリズムだけで、美しい「音楽」に仕上げた傑作です。この小説は部分的に引用することがほとんど不可能なのですが、私の好きなフレーズのいくつかを紹介させていただきます。
「音楽が、演奏が、プレイヤーが、何故、人間の五感が、生命の形式が、何故いつも楽譜という決まった軌道の上をたどらなくてはならないのか。」
「ピカソは、何故皿を焼く。
チャーリー・パーカーの一瞬は、比類なく偉大じゃないか。その旋律、その恍惚は充実し、その瞬間は強靭で、成熟して完璧だ。
人間の霊感を、霊感の自由さで、そのはかなさで、その速度で、現実の時間の中につなぎとめられるのは、ファンキーだ。
しかし、そんなことはどうでもいい。俺は今も、俺だけのために演っている。他の誰もがそうなのだ。」
「ああ、ヘロは俺の言うことをよく聴く俺あ今、完璧に近いんじゃないか
俺あまたこの瞬間を 俺のものにできそうだ
ヘロよ 俺の頭の中の小さな部屋たち 俺を助けろこの今をできるだけ引っ張れ!」
「俺はこのブロー自身になった
俺はもうジャンキーじゃない俺はバップだ!」
「リツ子 ごらん なんていう夕焼けだろう雲が飛ぶだろう
その向こうの夕焼けをごらんあれは坩堝だよ
あの中で赤い鉄を煮るんだ
いまに俺はあの中でピアノを弾く
海を通ってあの夕焼けまでいこう
坩堝の中は 真っ赤な 本物のバップだ」(ファンキー・ジャンプ)
石原慎太郎氏について、これからいくつかの論考がなされるでしょうが、その多くは(評価であれ批判であれ)ほとんどが政治家石原慎太郎についてであり、」文学者石原慎太郎についてはおそらくあまり論じられることはないでしょう。これは致し方ないことでもあります。石原氏の小説ははっきりと好き嫌いが分かれるものであり、日本近代文学の伝統からは大きく外れた人なんですね。村上春樹氏の方がよっぽど伝統的と思います(個人的な意見ですが、初期の村上春樹作品は、堀辰雄や立原道造を思わせるものがありました)。
そして、石原氏の政治姿勢、少なくとも表層の言説と、石原氏の文学の間は、距離があるどころか、むしろ真逆の世界を描いていますので、おそらく保守派の人には受け入れがたいものではないかと思います。(実は大江健三郎作品も、すぐれた作品においては彼の政治姿勢である戦後民主主義の理念とは完璧に反するものです)。ここで引用した「ファンキー・ジャンプ」も含め、初期作品の多くは、それこそ現在の「表現規制」に引っかかりそうな暴力や性描写がしばしば出てきます。「18歳」(在日朝鮮人少年による婦女暴行殺人事件をテーマにした初期短編)における皇太子報道への描写などは「反日だ」「陛下を侮辱している」という批判すら起きてもおかしくはありません。
その中でも「完全な遊戯」という、三島由紀夫が絶賛した作品があります。三島氏は、自決前約1週間の最期のインタビューで、このように述べています。
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