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日教組(二) 大野敏明(ジャーナリスト)

 いい思い出のほとんどなかった三鷹市立第三小学校を卒業し、東京オリンピックが開かれた昭和39年、私は三鷹市立第四中学校に入学しました。同級生は約250人、うち三小から160人、隣の通学区の七小から90人が入学しました。

 1年、2年のときも日教組の教師による、授業中の偏向教育がありましたが、私が標的になることはありませんでした。

 ところが、3年の秋、数学の松原新三郎という教師が、授業中に「安保反対」「自衛隊反対」「アメリカの原潜(原子力潜水艦)の横須賀寄港反対」と叫び始めました。われわれ生徒に話して聞かすという話し方ではなく、声高にまくしたてるアジ演説です。授業は最後の10分ぐらいだけです。来る日も来る日もアジ演説が続きました。

 私はたまりかねて、彼の演説中に立ち上がり、「先生、授業やって下さい」と言いました。彼は一瞬、ぎょっとした顔になりましたが、私をにらむと「大野、お前は先生の言うことがきけないのか。お前は反動だ」と怒鳴りました。私はひるまず、「僕たちは来年受験なんです」と言い返しましたが、彼は「お前は反動だ」を繰り返しました。

 こんな教師を税金で雇って公立の中学で先生をさせていたんです。異常な時代でした。

 私は意を決して、昼休みに校長室に行きました。校長は遠藤といって、朝礼で、始まったばかりの中国の文化大革命に理解ある発言をした男です。とはいっても、校長以外に話す相手はいません。ノックをして校長室に入りました。

「どうした大野君」

「お話があります」

「ああそう、まあ掛けなさい」

 私は松原教諭の授業中の発言を話し、「彼に授業をやるように命じてほしい」と言いました。すると遠藤校長は「君はそんなことは考えなくていい。それよりいい高校に入るために勉強しなさい」と言うのです。私は「だから言ってるんじゃないですか」と言いましたが、こんな校長に話してもムダだと悟り、部屋を後にしました。

 しかし、遠藤校長も松原教諭に何か言ったのでしょう、授業中のアジ演説はなくなりはしませんでしたが、減りました。

 昭和42年3月、われわれは卒業し、松原教諭は組合(日教組)専従となり、学校を去りました。彼のような人物が学校から姿を消したことは、当然とはいえ、後輩のためにもとてもいいことだと感じました。

 それから31年後の平成10年10月、三鷹四中昭和42年卒業生の初の同期会が東京・新宿で開かれました。約60人が出席、当時の担任の教師も6人中、5人が参加しました。その中に松原元教諭もいました。

 元担任が順番に挨拶に立ちます。松原元教諭の番になりました。彼は「君たちが卒業したあと、私は組合専従になりました。いまは日本共産党の書記局にいます」と近況報告をした後、日本共産党がいかに素晴らしい政党であるか、自民党政府がいかに大資本のいいなりで、反人民のひどい政府であるかを声高に叫び続けました。

 多くの参会者が白けました。

 しかし、私は彼の本質が分かるいい機会だと思ったので、懇談に移った時間を見計らって、彼のところに行き、「先生ご無沙汰しています。大野です」と挨拶しました。彼は私を見つめてから「ああ、大野か、元気か、いま何やっているんだ」とにこやかに聞いてきました。私は「おっ、少しはまともな人間になったかな」と一瞬思いました。

「新聞記者をしています」

「ほう、何新聞だ」

「産経新聞です」

 その途端、彼の顔がこわばりました。「産経は共産党に敵対し、自民党べったりの反動新聞だ」となつかしい「反動」の言葉を入れながら、産経を非難し始めたのです。 

 私はある程度までしゃべらせてから、「先生、ちょっといいですか」と聞きました。

「なんだ」

「先生はこの集まりに元教師として来たのですか、それとも共産党の書記局員として来たのですか」

「……」

「教師として来たのなら、かつての生徒がまじめに働いていることをまず喜び、思想信条とは別に、仕事を頑張るように励ますのが普通じゃないですか。同期会に来てまで、そんなことを言っていると、誰も相手にしなくなりますよ」と言いましたが、彼は「フン」と横を向いてしまいました。

 その後の同期会にも彼は顔を出しましたが、挨拶はいつも共産党の礼賛でした。

 彼のような人は特別だ、という意見もあるかもしれませんが、学校も生徒も目に入らず、ただただ共産党を盲目的に信じるだけの人生であったということでしょう。だからこそ、共産党員を続けられたのでしょう。

 10年ほど前、彼が亡くなったと仄聞しましたが、彼の話題が、その後の同期会で出ることは全くありませんでした。

(国体文化)