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【論説】ブリカスからチャイカスへの歴史的転換点
※イメージ画像
パックス・ブリタニカという言葉は、1815年から1914年までの100年間、カナダやオーストラリア、インド、南アフリカなど、世界中に広大な植民地を築いた大英帝国最盛期の時代を指す。とはいえ、英国による事実上の世界覇権は、17世紀後半に行われた英蘭戦争の勝利から、米国が積極的に外交指導力を発揮する第二次世界大戦前後までの300年余続いたといえる。
トップに居続けた英国の外交史は、現在の常識では測れない「異世界」だったとはいえ、とても褒められるものではない。
古くはスペインが覇権を握っていたパックス・ヒスパニカと呼ばれる16世紀の大航海時代。英国は奴隷貿易や海賊行為を繰り返すフランシス・ドレークやジョン・ホーキンスなどの船を非正規海軍船(私掠船)として認可し、スペイン無敵艦隊を破って世界覇権に乗り出す。産業革命が起こる18世紀半ばまで、繁栄の礎はアフリカ黒人を南北アメリカに輸出する奴隷貿易だった。清教徒革命で実権を握ったクロムウェルは1649年にアイルランドを侵略し、現在も続く北アイルランドの帰属問題の発端となった。
産業革命で圧倒的な工業力を手に入れた英国は広大な市場を求めて世界征服に乗り出す。1770年にジェームズ・クックが豪州に上陸すると、1788年から植民活動を開始。シドニー湾岸に監獄を建て、先住民族アボリジニの生活領域を圧迫しながら、支配権を確立していった。インドでは1858年の「シパーヒーの乱」後、ムガル帝国を廃し、自国の東インド会社を解散させインド帝国を建国。直轄植民地とし、独立を切望するインド国民の願いは第二次世界大戦後の1947年まで叶わなかった。
同時期に中国の清朝でも英国の支配は広がり、インドからの綿花・中国からの茶を輸入する対価として、インドで生産した麻薬のアヘンを中国に輸出し始めた。これにより中国の銀が大量にインドに流出。経済的な大打撃を受けた清は、アヘンの密貿易を強制的に取り締まったため1840年、アヘン戦争が勃発。一方的な戦いの末、5港の開港や香港島の割譲など英国に有利な不平等条約が締結されたが、限られた貿易範囲に不満を抱いた英国は仏国と共に1856年、アロー戦争を仕掛ける。太平天国の乱で混乱に陥っていた清は為す術もなく敗れ、反乱も外国傭兵の力を借りて鎮圧し、植民地支配は国内全土に及んだ。
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