shohyo「書評」

「氷雪の門」 三浦小太郎(評論家)

「氷雪の門」という、1974年に制作された日本映画があります。今ではDVDが容易にアマゾンなどで入手できるようになりましたが、一時は幻の作品とされていました。その映画が2010年、30数年ぶりに劇場公開された時、パンフレットの編集と宣伝で多少関わることが出来たのは、今となってはいい思い出です。その時に宣伝のつもりで書いた文章が見つかったので、ここに掲載しておきます。(どっか掲示板かミニコミに載せたんだろうけど今はもうわからないので、思い出としてここに置いておきます)
 
史実に基づいて作られた大作映画が
公開直前で中止に
 
 一九七四年、当時の日本映画では考えられないほどの超大作映画「樺太 1945年夏 氷雪の門」がついに完成した。製作実行予算は5億数千万、戦闘シーンには自衛隊が全面協力、写真資料にも乏しい樺太の町並みを美術担当の木村威夫が見事に再現、役者も、藤田弓子、久米明、丹波哲郎、島田正吾、木内みどり、北原早苗、浜田光夫、岡田可愛等、当時の有名な俳優をずらりとそろえていた。映画監督の村山三男の作品中でも最も優れた作品の一つであり、このときは村山監督には映画の女神が降りていたといえよう。
 
 しかし、公開時、当時のソ連大使館から「反ソ映画であり、日ソの友好を妨げるもの」という抗議が入った。急遽、映画上映は事実上中止となり、この作品は幻の作品となる。以後、この映画は自主上映や、靖国神社遊就館での特別上映など、ごく限られた人々の目にしか触れることは無かった。
 
 この映画のストーリーは、大東亜戦争敗戦直後の、ソ連の樺太侵略と、そのときに電話交換手として自らの職務を果たし、屈辱を受けるよりは死を選んだ女性達の実話から成り立っている。もちろん、映画のための脚色はされており、実名なども変えられている。
 
(映画のストーリー)
 一九四五年夏、樺太西海岸・真岡町。太平洋戦争は既に終末を迎えようとし、報道機関は刻々迫る終焉を報じていたが、戦禍を浴びない樺太は、緊張の中にも平和な日々が続いていた。真岡郵便局の交換嬢たちは、四班にわかれて交替で任務についていた。彼女たちは仕事の合い間にスポーツや音楽会などで楽しい青春の時を適していた。
 
 8月9日、ソ連は突如日ソ中立条約を破って参戦し、日本への進撃を開始した。戦車を先頭に南下するソ連軍は、次々と町を占領していった。戦禍に追われた罹災者たちは、長蛇の列をなして真岡の町をめざした。交換嬢たちは、刻々と迫るソ連軍の進攻と、急を告げる人々の電話における緊迫した会話を、胸の張り裂ける思いで聞き入っていた。真岡郵便局の交換嬢たちは、四班交替で勤務についていた。彼女たちの中には、原爆が投下された広島に肉親を持つものも、また国境を守る兵士を恋人に持つ者もいた。彼女らは不安を隠しながら、黙々と通信の仕事にいそしんでいた。
 
 8月15日の敗戦も、樺太にとっては戦争の終わりではなかった。やがて、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出された。だが、交換嬢二十人は交換手として職務を遂行しようと互いに励ましあい、責任をはたそうと心に誓っていた。
 
しかし、ソ連の進攻はやまず、8月20日。突如、真岡の町の沿岸にソ連艦隊が現われ、艦砲射撃を開始した。戦火の中で民間人の犠牲は増え続け、抵抗しようとした人々も次々と倒れていった。やがてソ連軍は上陸を開始、都市は炎に包まれ、避難民たちも銃弾にさらされ斃れていく。この時、関根律子を班長とする第一班の交換手たちは最後まで職場に残る道を選んだ。
 
緊急を告げる電話の回線と、まだ避難を続ける町の人々へ、その避難経路を告げ、多くの人々の生命を守るためにも、彼女らは職場を死守した。しかし、ソ連軍は目前にせまってきた。最後まで職場にとどまった9人の交換嬢たちは、最後の放送を行った後、静かに毒をあおぎ天国へ旅立った。
 現在、北海道稚内市・稚内公園内に、樺太で亡くなったすべての日本人を祭る塔が建てられており、「氷雪の門」と呼ばれている。
 
静かに日々の仕事をつとめることが
多くの人々の命を救った
 
 この9人の女性を悼む、「9人の乙女の像」が、稚内市に1963年に建てらた。彼女らは公務殉職として勲八等宝冠章を受勲、靖国神社にも合祀されている。像には交換手姿の乙女の像銅版レリーフがはめ込まれ、彼女らの最後の言葉と、9人の名前が刻まれている。天皇、皇后両陛下は、1968年、同地を訪問され、次のような御製を残されている。
御製「樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねはせまりくる」
御歌「樺太に つゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと たゞいのりぬる」
 
沖縄戦や、広島、長崎の原爆については多くの著作も記録も残されているが、「日本本土で陸戦場になったのは沖縄だけ」というよく聴かれる言葉は完全に間違いである。しかも、樺太や北方領土の侵略は、8月15日以後に行われ、無防備な民間人が殺害されたことは、歴史として決して忘れてはならないはずだ。
 
 そして、電話交換手という仕事自体は、誰かがやらなければならない仕事ではあるけれども、決して世の中において華やかな仕事とはいえない。むしろ、黙々と、しかし着実に働くことを求められる地味な仕事といえるだろう。だが、このような有事の際、いつもはなんとも思わずに使っている「電話」という機械が、そしてその通信を守り続ける人々がいたからこそ、人々は連絡を取り合い、危機を知らせあい、一人でも多くの命が助かったのだ。
 
「私達は交換手よ、回線がつながっている間は、ここを離れることはできないわ」と語る彼女らの姿は胸に迫るものがある。大言壮語し、大日本帝国は負けていないなどと戦争をあおり、そして敗戦後にはいきなり民主主義者となって虚名を流し、中にはソ連やシベリヤ抑留を美化して社会主義万歳を唱えた多くの言論人よりも、このような女性達の精神ははるかに高みにあった。
 
そして、この映画では、乏しい武器で最後まで民間人を守ろうとした兵士達も描かれている。すでに大日本帝国は降伏し、軍としての責務は無い。だが、目の前に守るべき人々がいる以上、彼らは最後まで戦い続けた。この樺太や、また北方領土に攻め込んだソ連軍に対し、国家は滅びても国民を救うために徹底抗戦した兵士がいたこと、その抵抗力はソ連の予想をはるかに上回っていたため、ソ連は北海道(場合によっては東北地方をも)占拠し衛星国を立てる野望をあきらめたのである。
 
 そして、ソ連軍の暴行は欧州でも多くの蛮行が見られたが、満州、朝鮮半島、そしてこの樺太でのソ連軍は、各地で蛮行を働き(多くが囚人兵だったとも言われる)多くの女性が酷い目にあった。米英はあまりの惨状に、スターリンに軍規を引き締めるよう忠告せざるを得なかったほどである。しかし、スターリンは平然と、戦場を生き抜いた兵士が多少「気晴らし」をしたくらいで何を騒ぐか、といわんばかりの態度だったという。
 
私は北朝鮮出身の女性に、朝鮮半島北部を占拠したソ連軍の蛮行や恐怖を聞いたこともある。彼女達が死を選ぶしかなかった心情と、それでも責務を果たし続けた勇気に、この映画でぜひ触れていただきたい。