contribution寄稿・コラム

【民主主義の原則と理想について】 堀 芳康(國體護持研究家)

2015年4月30日、安倍総理が米国議会で下記のように述べて、民主主義を賛美しました。

「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」

でも民主主義の原則や理想はそれ程賛美出来るものなのでしょうか?

高度成長経済を経験した我国の国民は豊かになっている筈なのに、この社会の中で勝ち残る為に日々あくせくし、不安を抱えて生きている。民主主義が素晴らしいなら、何故、我国の自殺者が年間3万人近くもいるのだろう。

人間の内面が外側にある価値体系に依存出来なくなった時、自らを消去する決断を行う。ここに民主主義の不幸が存在するという仮説をたててみよう。

民主主義の本質だが、そのルーツは18世紀半ば啓蒙主義と称し欧州で起こった。それは理性第一主義(または合理主義)であり、人間の理性が進歩を促し、人間をこの世の存在の中心とするヒューマニズム、人間中心主義が誕生するのである。

この人間の理性の力は、あらゆる人間に等しく準備されているものととらえれば、ここで平等主義が生まれ、それは多数決原理を採用する民主主義へとつながっていくのである。

これが民主主義の原則である多数決で、この理論は多数派の意見の方に、多くの真理が宿っているという単純な計算で生まれる(西部邁「知識人の生態」より)。褒めたたえる程の原理はないのである。

この啓蒙主義の中で、生まれた理性第一主義は、人間の欲望の解放へとつながり、近代科学と歩調を合わせ、経済学的なものに取り込まれていく。この経済学と一体化した合理主義は、産業の発展の中で、労働者と資本家という階級を生み、同じ労働者でも所得の格差を生んでいく。階級や格差は、理神論の平等という本来の原則を歪ませ、多数決は真理の重みから、富裕層の利益を守る為の道具へと変わってゆくのである。

さらに、欲望の開化は、生産至上主義を生み、機械化された近代工場に於いては、人間は機械の一部となり、人間の内面にある価値は軽視されていく。ナショナリズムや歴史的な存在としての内面はあってもなくても、この社会の中ではたいした問題ではなくなってしまう。

ここまで見てゆくと、民主主義の理想というのは、合理主義を基調とする社会の中で大きく歪められ、人間の内面を軽視するのが民主主義だったことがわかります。

日本人が民主主義社会が基調となった欲望経済で幸福になれるのかという問題は、歴史の中でも検証して見る必要があります。次回は日本の民主主義について書いてみたいと思います。