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【教科書で教えたい近現代史 (その7)】 そもそも満洲民族の国家であった満洲国 ―満洲はシナではないと『紫禁城の黄昏』が喝破、 ましてや日本の植民地でもなかった― 鳥居徹夫(元文部科学大臣秘書官)
■『紫禁城の黄昏』が証拠採用なら、極東軍事裁判は全員無罪
清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)の家庭教師であったイギリス人レジナルド・ジョンストンによる『紫禁城(しきんじょう)の黄昏(たそがれ)』という著書は、まさに貴重な歴史の証言である。原著は1934年刊。
ところが極東軍事裁判では、日本を悪者に仕立て上げたい連合軍が、この著作を証拠書類として取り上げることを拒否した。
この本を証拠として採用すると、東京裁判の戦犯は誰もいなくなってしまう。
そのシナで辛亥革命が起こり、1912年に満洲族最後の皇帝溥儀は紫禁城から家庭教師のジョンストンとともに日本公使館に逃れた。
清王朝は満洲民族の王朝であり、決していわゆるシナ人の王朝ではなかった。
そもそも満洲国は、日本が侵略してつくった傀儡国家ではない。
満洲人の正統な皇帝が、「清」を建国した場所に戻って清朝の流れで建国された。
つまり清朝最後の皇帝・溥儀は、日本政府に拉致されて皇帝になったのでなく、自ら望んで日本に助けてもらって皇帝になったと、いうことを認めることになると、極東軍事裁判の日本断罪の論議が根本から崩れる。
ジョンストンは、「満洲はシナではない」、「シナには近代欧米的な意味での国家は、かつて存在したことがなく、いろいろな王朝があっただけである」と指摘している。
■□シナの王朝が満洲を実効支配した歴史はない
清朝政府の力は急速に衰え、明治45(1912)年2月には清朝皇帝の退位と中華民国の樹立を宣言した。いわゆる辛亥革命である。
満洲人による王朝である清朝政府は、ここから中華民国政府に変わるのである。
大清国がシナ本土のみならず、満洲、蒙古、ウイグル、チベットなどを版図に加えていたのは、満洲人がシナ本土を征服してできた王朝だったからである。
シナ人が満洲人を追放したからといって、それらの地域を中国の版図として主張するのは無理がある。
秦の始皇帝の時代からみても、シナの王朝が満洲を実効支配した歴史はない。
古代からシナ本土(万里の長城の内側の漢民族の居住地)を支配した王朝はシナ本土に居住していた漢民族によるものだけでなく、周辺の異民族(蛮族)によるものがいくつもあった。
シナ大陸の歴史はさまざまな地域や民族による興亡(争奪)の歴史で、一つの中国という国家(地域)が昔から存在していたわけでない。
明治32(1899)年に「扶清滅洋(ふしんめつよう 清国を助け、西洋を滅ぼす)」を掲げた義和団事件が起こった。これに乗じ西大后は、義和団の排外運動への支持を表明、清国軍を派遣して列強に宣戦布告した。(北清事変)
その西太后の支援で「義和団」が、首都・北京に入城すると、北京の治安は急速に悪化し、社会は混乱に陥った。
欧米諸国や日本などの外国人(列強諸国の居留民)排斥を唱えて、列強公使館に進軍したことから、5月31日、居留民保護と治安回復を目的に、英・仏・米・露・独・伊・墺(オーストリア)・日本からなる8ヶ国連合国軍が北京に出兵した。
義和団と清国兵は、北京の各国公使館や天津の租界地を攻撃したが反撃され駆逐され、連合軍が北京に入城し、紫禁城を制圧した。
日本軍は8ヶ国連合軍の一員として進駐したのであり、そもそも「侵略」を意図したものではなかった。
その結果、北京議定書が結ばれ、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされ、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、日本の5カ国は、治安が悪く無秩序状態の支那に駐屯軍を置き、シナ在留の外国人の保護にあたることとなった。
■ 義和団事件に乗じて全満洲を占領したロシア
北京議定書が結ばれ各国が撤退したにもかかわらず、ロシアは撤兵しなかった。それどころかロシア帝国は、明治36(1903)年に義和団事件に乗じて全満洲を占領した。
つまり満洲は清朝の時代に、事実上ロシア領になっていたのである。
ロシアは満洲に兵を送り、全満洲を実質的に占領し、日露戦争間近の時期には、清朝の官吏が満洲に入るにもロシアの役人の許可が必要であったという。
さらにロシアは南下して李氏朝鮮に朝鮮半島に進軍し、軍港を建設し始めた。
ロシア軍が、元寇のように朝鮮兵を使って日本を攻撃することが予想される中、緊張が高まり勃発したのが日露戦争である。
日本が、明治37(1904)~38(1905)年の日露戦争で、ロシア軍と戦い、これを打ち破らなかったならば、遼東半島のみならず、満洲全土も朝鮮半島も、今日のロシアの一部となっていたことは疑う余地がない。
シナ(清朝)はロシアを追い払うために何もしなかった。
ところが日本は、日露戦争でロシアを打ち破った。
満洲地方には、漢人、蒙古人、満洲人、そして数多くの混血民族など、王朝に忠誠を尽くす人々がすこぶる大勢いた。だからこそ満洲は、辛亥革命で積極的な役割を全く演じなかったのである。
日本はロシアの植民地になりかけていた満洲を助けたのであった。
■ 満洲はシナではない
ジョンストンは次のように記している。
20世紀初頭の満洲は実質的に、完全にロシアに占領されていた。
「満洲はシナではない」、「シナには近代欧米的な意味での国家は、かつて存在したことがなく、いろいろな王朝があっただけである」と指摘している。シナ人にとって満洲は、万里の長城外の化外の地にほかならないのである。
明治44(1911)年の辛亥革命で漢民族(支那人)たちが清王朝(満洲族)を打倒し、孫文(漢民族)を初代臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。
シナ人(漢民族)たちが清王朝(満州族)を打倒して清国政府を、その故郷である満洲に追い返し、長年にわたる満洲族の支配からの民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、中華民国を建てた。
孫文は、清国政府をその故郷である満洲地域に追い返し、長年にわたる満洲族の支配からの民族独立(三民主義の一つ)をめざして戦い、翌明治45(1912)年1月1日、中華民国を建国した。
辛亥革命で、本来ならば、支那と満洲は別々の国になったハズであった。
ところが中華民国は、清朝の支配地域を全て継承したいがため、漢民族だけでなく「中華民族の土地はすべて中華民国(支那)の土地だ」と主張し、チベット、ウイグル、蒙古(モンゴル)、満洲が自立・独立するのを認めなかった。
■ 無政府・無秩序状態の中国大陸と、混乱する満洲
孫文による辛亥革命がおこり、明治45(1912)年に清朝が滅亡すると、中国大陸は無政府・無秩序状態にあった。
清朝滅亡後に、軍閥(私兵集団)が各地に割拠し覇権を巡って抗争を始めた。
シナ本土では孫文の率いる民族主義の国民党軍閥が次第に有力になった。しかしシナには依然として統一国家はなく、自称「中華民国」も実態は私兵集団に過ぎなかった。
軍閥とは、徴税をする私兵集団のことである。ちなみに日本に軍閥はなかった。
満洲は宗主国の清朝が滅びると、無宗主の地域となった。
蒋介石(南京)と毛沢東(延安)の対立や、軍閥が各地で蜂起、そして馬族、匪賊が跋扈という状況であり、さらにはコミンテルンの工作で暴動を起こさせ、シナや満洲を混乱させた。
とりわけ満洲では、コミンテルンの暴虐を放置すると日本が守れない。朝鮮やシナは自治能力がない。日本が抑えるしかない。
大正8(1919)年から10年間、日本人居住地が襲われた事件だけでも110件に及んだ。月に1回の割合である。
満洲では、鉄道をめぐる事件が頻発していた。数年間の間に100件以上も鉄道爆破事件があった。
満洲には匪賊と呼ばれるテロリストたちが、推定100~300万人いたといわれる。
「土匪」(いわゆる馬賊)のほかにも「半農半賊」(状況次第で匪賊になる)、「宗教匪」(宗教的秘密結社)、「政治匪」(敗残兵たち)、「共匪」(共産ゲリラ)などが神出鬼没。匪賊による都市襲撃、列車襲撃が続発した。
昭和3年(1928) 年の張作霖爆死事件も、そのうちの一つと考えられていた。この事件も当時は大きな国際問題にならなかった。
当時、満洲の実権を握っていた張作霖は、もともとは馬賊の頭目にすぎなかったが、明治44(1911)年の辛亥革命後、満洲の中心地であった奉天(現・瀋陽)を中心に力をつけ、北京などシナ中心地域にまで支配を広げていた。
昭和2(1927)年、国民党軍の蒋介石の北伐軍(国民党)が、張作霖が支配していた北京に迫った。
昭和3(1928)年6月4日、張作霖は列車で奉天に向かったが、その列車が爆破され張作霖は死亡した。
この張作霖爆殺事件は長い間、日本の関東軍の陰謀(河本大作大佐の独断)と考えられていたが、「マオ(毛沢東伝)」(ユン・チアン著)は、コミンテルンの謀略であったことを明らかにしている。しかも国際連盟のリットン報告書(後述)も日本軍陰謀説を採用していない。
また、英国大英博物館で在東京英国特務機関のチェンバレン外相宛の報告書を発見した加藤康男は、その著「謎解き張作霖爆殺事件」で、事件は日本軍の仕業に見せかけたソ連の暗殺の可能性が大としている。
爆発被害が列車の上部に限られることから爆薬は貴賓車両の屋根に北京で仕込まれた可能性が高いという。
従来は河本らが交叉鉄橋の上部に爆弾を仕掛けて破裂させ、下を走る列車の貴賓室を爆破したというものであった。
この事件の奇怪な点は爆発時の鮮明な写真があることである。これは撮影の専門家があらかじめ現場に待機し入念に準備していたことを意味する。
張作霖が爆死した5日後に、蒋介石の北伐軍は北京に入り、張作霖の息子の張学良が奉天省を治めるようになった。
■ 満洲民族の国家として建国した満州国
満洲もまた無政府・無秩序状態であり、馬族、匪賊が跋扈し混乱の中にあった。
とくに昭和7(1930)年の間島暴動では、日本人44名が殺害された。
さらには昭和6(1931)年9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、南満洲鉄道の線路を爆破される事件がおきた。
日本軍は、これを張学良らよる破壊工作とみなし、直ちに軍事行動に移り満洲事変が勃発した。
日本の関東軍は、現地の満洲独立を求める機運にも乗り、5ヶ月で満洲全地域を制圧した。
満州地域を支配していた張学良を、万里の長城の南に追いやったのである。
これまで満洲の独立運動は、長い時間をかけてはぐくまれ、すでに現地住民が独立を宣言できるところまで熟成していた。
満洲事変はそのきっかけをつくったにすぎない。
満洲国は、昭和7(1932)年3月1日に誕生した。清の宣統帝(せんとうてい)溥儀(ふぎ)が満洲国建国を宣言し、シナに侵略されていた満洲を満洲族が取り戻した。
中華民国から分離して、満洲民族の国家として建国し満洲地域の治安は回復した。
その後も満洲とシナの国境付近で、張学良軍や中国国民党軍がテロ攻撃してきたが、それらを排除し、昭和8(1933)年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』によって、満洲事変は終結した。
そこから昭和20(1945)年のソ連軍の侵入まで、文字通り12年間に及ぶ「満洲の平和」であった。満洲国は、日本の保護で治安の良い地域となり、満洲鉄道の沿線の開発も進み、産業も発達した。
■ 中国に厳しかった「リットン報告書」
昭和7(1932)年3月、中華民国の提訴と日本の提案により、国際連盟から「調査団」が派遣された。団長はイギリスのリットン卿であった。
そして、その年の9月に報告書(リットン報告書)がまとめられた。
以下は、渡部昇一先生が編集された「全文リットン報告書」(ビジネス社、2006年11月)による。
リットン調査団は、満洲族の王朝である清朝と、満洲族を排して漢民族により樹立された中華民国を同じシナとし理解し、満洲は古来シナ(中華民国)の一部であった、という誤った認識であった。
リットン調査団の視点と日本側の認識が一致しなかったのは、この点であった。
大戦終了後、GHQの一員として来日したアメリカの歴史学者のヘレン・ミアーズ女史は、『アメリカの鏡・日本』(昭和23年、1948年)を著わし、そこで「リットン報告は主要な二つの点で、極めて中国に厳しいものであった」と指摘していた。
その「リットン報告書」は、次のように述べている。
①「共産主義犯罪集団」が混乱要因となっていること、
② 国民党(列強が合法的中央政府として承認した南京政府の指導者、蒋介石の党)は「反外国感情に侵されている」
■ 満洲国における日本の役割を認めたリットン調査団報告
実際、リットン報告は驚くべき文書である。逆に報告は中国告発の材料を揃えている。
リットン調査団報告は、明治44(1911)年の辛亥革命以来、(国民党)政府が弱体であるために、政治動乱、内戦、社会・経済不安が続いていると指摘した。そしてシナは、接する全ての国々に悪影響を及ぼしていると断言しているのである。
(ちなみに蒋介石が、中華民国臨時政府の樹立を表明したの
は、満州国建国の1年前。辛亥革命の直後ではなかった)
一方、日本はリットン調査団に対し、次のように説明した。
満洲が、かつて中国の一部だったことはない。「清の時代」は、全く逆で中国大陸の方が満州帝国の一部だった。満洲独立運動は「自発的で、民族の意思により、自然に生まれた」ものであり、満洲国は「本物で独立国」である。
満州国は、日本の画策で誕生したものではないし、ましてや日本の傀儡政権ではない。
つまり「アメリカ独立戦争のときに、アメリカを支援した、フランスのようなものに過ぎない」との見解を示したのである。
しかもリットン報告書ですら、満洲国における日本の役割は、「共産主義の脅威」と中国軍閥の悪政から国民を守り、近代国家への発展を助けることだったと、指摘していた。
これは国家の存亡にかかわる「自己防衛」策でもあった。
満洲では軍閥、馬賊を追放し、これら地域では安定社会が現出し、殖産興業が行われたのである
新国家「満洲国」は、満州本来の皇統を継ぐ溥儀(ふぎ)に父祖の地に戻って、新しい国を治めて欲しいと要請し、日本には満洲と日本の相互防衛のために軍隊の駐留を続けて欲しいと要請した。そして溥儀が、満洲国の皇位継承者となった。
ところが、リットン調査団の最終報告は「国際連盟の加盟国は満洲国を承認すべきではない」と勧告した。日本がビックリしたのは当然である。
■治安の良いところが満洲と、汪兆銘政権の支配地
満洲国の建国時には3000万人であった人口が、昭和20(1945)年には4500万人となり、毎年100万人の中国人が万里の長城をこえて満洲にやって来た。
満洲国は、まさに中国人にとって桃源郷であった。
満洲国を承認する国家は少しずつ増加し、最終的には日本や国民党政府(蒋介石)を含む20カ国以上が承認しており(当時の世界は60カ国)、その中にはドイツ、イタリアや北欧・東欧諸国だけでなく、バチカン政府(ローマ教皇庁)も含まれていた。ソ連でさえ、国内に満洲国領事館の設置を認めるなど、事実上、満洲国を承認していた。
つまり諸外国は、リットン調査団の最終報告とは正反対に、満洲を普通の国家として承認していたのである。
当時の中国人は、植民地の象徴とされた租界地に住むことを夢見ていたという。
なぜなら租界地は、中国の中で、唯一生命と財産を保障してくれる天国であり、駆け込み寺だったからのである。
「先の大戦はアメリカが悪く、日本の自衛戦争であった」と昭和26(1951)年5月3日、アメリカ上院軍事・外交合同委員会の公聴会で、マッカーサー自身が証言した。
一方、昭和15(1940)年に南京に誕生した汪兆銘政権では、治安も良くインフラも整備され、中国人にとっても安心して生活できる場所となった。
中国大陸で、治安の良いところが満洲、汪兆銘政権と、各国の租界地であり、治安の悪いところが延安、重慶であった。まさに天国と地獄の差があった。
当時の日本は、事実上アジアの警察官であった。
その警察官の役割を、日英同盟の破棄を迫るなどの謀略によって、日本を追い落としたのが欧米諸国とシナ、そして国際共産主義なのである。
日本がアジアの警察官でなくなってから、アジアは70年間にわたり、ずっと混乱の中にある。そしてアメリカも、その混乱に苦しんでいる。