rekidai「歴代天皇の詔勅謹解」
歴代天皇の詔勅謹解 第二回「講演要旨 明治天皇の詔」 御所市議会議員 杉本延博
今回、次回と2回にわたりまして、11月3日、第二十五回桃山御陵参拝団臨場講話 11月6日、学ぼう会北摂・よくわかる歴史講座での「みことのり」に関する講演要旨を掲載いたします。
11月3日 第二十五回桃山御陵参拝団臨場講話「明治天皇の詔」より
本日、十一月三日は明治節(明治天皇の御誕生日)であります。本題に入る前に明治節制定の詔書をご紹介いたします。
明治節制定の詔書 (謹抄) 昭和二年三月三日 『官報』
朕ガ皇祖考明治天皇、盛徳大業、夙ニ曠古ノ隆運ヲ啓カセタマへリ。茲ニ十一月三日ヲ明治節ト定メ、臣民ト共ニ、永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ、明治ノ昭代ヲ追憶スル所アラムトス。
謹んで大意を拝します。「私の亡祖父明治天皇は、盛んに徳を施して大業を執り行い、早くから未曽有の隆運を啓かれたのである。ここに十一月三日を明治節と定め、国民と共に、永く明治天皇の聖業を仰ぎ、明治の御代を追憶していきたいと思う。」と仰せになられています。
ここで、明治節制定までの流れを説明いたします。国柱会創始者、田中智学の提唱から始まり、国民運動として発展していきました。そして二万筆の署名を集めて国会に請願したのであります。その後、衆議院・貴族院両議会で議論されて、全会一致で建議案を可決したことから、天皇より詔書が宣せられて、明治節が制定されることになりました。
しかし戦後は一転、占領政策の一環により、現行祝日法が制定されて、明治節は現在の「文化の日」に改められてしまいました。
このような状況に対して、現在、「明治の日」推進協議会が「文化の日」を「明治の日」に改める国民運動を行っています。多くの同志のご支援、ご協力により、今日までに六十万筆を超える署名が集まっていることは、まことに嬉しい限りであります。
引き続き皆様のご支援、ご協力をお願い申し上げまして本題に入ります。
本日の講話では、救恤、倹約、社会慈善事業など「国民を慈しみ愛する」大御心が、仰せだされた明治天皇の尊き「みことのり」の数例をご紹介してまいりたいと思います。
〇救荒の勅語 (謹抄) 明治元年六月 『岩倉公實記』
東方諸州ノ新ニ茶毒二罹ル者、其レ何ヲ以テ能ク救助セン。是レ朕カ實ニ萬機ヲ攬ルニ不堪、深ク自ラ愧チ、自ラ哀ム所ナリ。庶幾クハ主者、其レ朕カ慈意ヲ體シ、詳議審論、以テ賑恤・救助スル所ノ者アランコトヲ圖レ。
ここで謹んで大意を拝します。「今日まで罹災者にめぐみを与えることもできず、夜も昼もそれを考えては、心を痛めている。思えば祖宗の御霊のおかげで天皇として即位し君として民に臨んだのであるが、不徳にして未だに民を安心させることができず、都に近い畿内の民さえも、こんなに苦しませている。どのように救済したらよいのであろうか。これは私が万機の政治をとるに堪えず深く自ら反省し、自分を哀れむわけである。役人たちは私のこの大御心をもって自分の心として困っている国民を賑わい恵むようにしてほしい。」と仰せになられています。
明治元年、多量の降雨の影響により水害(河川氾濫や田畑の水没等)が多発したことで、農業に従事している民にとつて悲惨な状況が続きました。このような状況に対して岩倉具視や木戸孝允らは、詔勅の渙発を上奏します。そして明治天皇は、本勅によって救済の大御心を仰せになられて、罹災者に対し救済策が執り行われたのであります。その救済策として、〇罹災者の数を調査して金穀を給与すること○堤防や橋梁の破損を速やかに修理すること等であったことが『岩倉公実記』に記されています。(※『大日本詔勅謹解』参照)
また同じような詔勅が、明治二年八月に「用を節して救助に充てるの勅語」として渙発されています。この年も水難が続いた年でありまして、農作物が大きな被害を受けたことにより農村の疲弊がひどかったようであります。このような悲惨な世情をお聞きになられた明治天皇は、日常の供御を減じられるなど御自ら率先してあらゆる倹約を執り行われたのでありました。
このように水害や地震、飢饉などにより、国民が苦しむような世情に見舞われれば、速やかに救済策を仰せだされるとともに、御自ら率先して倹約に励まれる有難き御事績は、歴代天皇の「みことのり」から数多く拝することができるのであります。
〇皇居造築延期に就き三條實美に下されし勅諭 (謹抄) 明治六年五月 『太政官日誌』
朕カ居室ノ爲ニ、民産ヲ損シ、黎庶ヲ苦マシムルコト勿ルヘシ。
ここで謹んで大意を拝します。「私は前日の火災により宮殿が焼失してしまったが、今非常に多くの国費を必要としているときに、宮殿を増築することを望まない。私の居室を作るために国民が蓄財を減らし、苦しめるようなことがないようにしてほしい。」と仰せになられています。
勅諭の中で「前日の火災で宮殿が焼失…」と明治六年に皇居内で火災が発生した事態のことを仰せになられています。
この勅諭以降、明治十六年に予算八百万円を計上して皇居造営案を上奏しましたが、明治天皇は「大規模な宮殿を造る必要はない…質素を第一とせよ。」と仰せになられました。そして皇居造営案を見合わすことになり、明治二十二年頃まで赤坂離宮を仮の皇居となされていました。できるだけ国民に負担を掛けてはいけないとの慈しみ深き大御心を拝することができます。
〇利用厚生の勅語(謹抄) 明治十二年三月 『岩倉公實記』
今親ク民事ヲ察スルニ、生産未タ振ハス、富庶ノ實或ハ未タ進ムコトヲ加へス。朕深ク以テ憂トナス。茲ニ念フ、與國ノ本ハ勤儉ニアリ。
ここで謹んで大意を拝します。「国難の時、皇祖皇宗の御加護と臣民の尽力により、維新を成就することができた。しかし情勢が非常時であり、安心することができない。国内的には皇祖より継承されてきた国威を失墜させないようにし対外的には諸国と対等に交際していこうと思う。今親しく民情を見て思うことは、生産が不振で富が実のところ前よりも進んでいない。私はこのような実情を憂えている。ここで想うことは国を興す基本は倹約ということである。皇祖皇宗は倹約を基に建国された。今、富国の実が上がらないのに、にわかに奢侈の弊害に陥るならば、その責任は私にある。私は自ら改め、己を励まし、天下の模範になろうと思う。宮中の工事は倹約を旨とし、食事は質素にし、無駄を省き、仕事に励み、基を養う資金に充てるように。国民を富まし生活を豊かにする案があるものは遠慮なく提案し私の及ばぬところを助けるようにしてほしい。」と仰せになられています。
勅語の中で「宮中の工事は倹約を旨とし、食事は質素に」と仰せになられていますが、御自ら率先して倹約を実践あそばされた御姿に、国民の父としての慈しみ深き大御心を拝することができます。
明治天皇は、明治元年十月に「直諫を求める詔」を仰せだされています。この「みことのり」では、善きまつりごとを執り行うため善き提案があれば、天皇に申し出てまつりごとを補佐するよう仰せになられていますが、本詔の後段で、仰せになられている「国民を富まし生活を豊かにする案があれば遠慮なく提案するように」と同じ内容の聖旨であります。
歴代天皇の「みことのり」を拝すれば、臣下に善き意見をもとめてまつりごとに活かそうとなされる「みことのり」が、数多く渙発されていることがわかります。すべては「国民を慈しみ愛する」大御心があらわれた御聖徳であるといえましょう。
〇施療濟世ノ勅語 (謹抄)明治四十四年二月 『官報』
無告ノ窮民ニシテ、醫藥給セス、天壽ヲ終フルコト能ハサルハ、朕カ最軫念シテ措カサル所ナリ。乃チ施藥救療、以テ濟世ノ道ヲ弘メムトス。
ここで謹んで大意を拝します。「自分の苦しみが上に聞こえ達しない国民が、病中に医薬を求め得ず、天寿を全うすることができないような場合には放っておくことができない。これは私の赤子として、深く憐れみ気にかけてやまないところである。以上のことから貧しく病める国民に向かって、施療の道を開き、病をいやし、生命を全うする事業を広く行いたい。その目的のため皇室の費用を支出して資本に充てることにした。今後永く国民を無告の民にしないよう取りらうべきである。」と仰せになられています。
ここで、済生会設立までの流れを振り返ってみます。明治天皇が社会問題解決の一助として、内怒金(ないどきん)150万円を支出され、桂太郎内閣に主旨を伝えられました。そして桂内閣は、全国の華族、富豪に賛助を求めて済生会を組織し「恩賜財団済生会」と名を決めて上奏します。それに対して明治天皇は「皇室だけではなく一部の国民も出資したのだから恩賜財団とするのは妥当ではない。」と仰せになられました。そして桂内閣は「恩賜が基本になっていますのでぜひとも記念に致したく思います。」と奉答したところ明治天皇は「そのような考えなら、それでも良いだろうが、恩賜財団の字を小さくして割注とするなら差し支えはない。」と仰せになられたのであります。まことに御謙遜であらせられる大御心を拝することができます。(※『大日本詔勅謹解』参照)
皇室の社会慈善策の歴史を振りかえてみますと光明皇后の施薬院が有名であります。
現在も恩賜財団済生会病院が全国各所にあり、医療拠点として国民を助ける大きな役割を果たしています。
〇戊申詔書 (謹抄)明治四十一年十月 『官報』
抑モ我カ神聖ナル祖宗ノ遺訓ト、我カ光輝アル國史ノ成跡トハ、炳トシテ日星ノ如シ。寔ニ克ク恪守シ、淬礪ノ誠ヲ輸サハ、國運發展ノ本近ク斯二在リ。
ここで、戊申詔書の一部を謹んで拝します。「我が神聖なる皇祖皇宗の御遺訓と世界に輝ける国史に現れた御聖徳及び国民が忠義を尽した業績は月や星のように燦然と輝いている。今日の日本国民は、この皇祖皇宗の御遺訓を心に深く記憶して固く守り、真心から奮励努力すれば、国の発展の基を固めてゆくことができるであろう。」と仰せになられています。
戊申詔書が渙発されました明治四十一年は、干支(えと)の戊申の年にあたることから戊申詔書と称されたのであります。また詔書のなかで勤倹を強く奨励されていることから「勤倹の詔書」とも申し上げられたのでありました。
日露戦争の勝利以降、贅沢に耽る軽薄な精神に流されていく世情の影響で、厳格だった日本人の道徳心、国民生活の精神状況が退廃していき、また社会主義思想が流入するなど様々な要因が重なったことで、社会に悪影響を及ぼし始めていました。このような状況に対して、正しい国民教化に基づく健全な世に戻すため渙発された経緯があります。戦前、戊申詔書は、教育勅語、軍人勅諭と並び国民道徳教化の指針となる大事な「みことのり」として位置付けられていました。言うまでもなく、今にも通じる素晴らしい御教えであるといえましょう。
さて戦後も七十年が過ぎてしまいました。残念ながら未だに正しい日本の歴史・伝統・文化を再興することができていません。再来年は、明治維新百五十年の節目の年であります。今こそ明治天皇の尊き「みことのり」の一字一句から日本精神とは何かを学び実践に活かしていくことがもとめられているときではないでしょうか。本日ご参加いただきました皆様と心を一つにして日本再興に向けた戦いに邁進していくことを確認して私の講話を終わらせていただきます。
※本講演要旨の原文は『国体文化』(日本国体学会)に掲載予定です。
※講演要旨作成にあたり参考、引用した文献
〇『大日本詔勅謹解』森清人、高須芳次郎 日本精神協會
〇『大日本詔勅通解』森清人 詔勅精神振興會
〇『御歴代天皇の詔勅謹解』杉本延博 展転社
杉本延博(すぎもとのぶひろ)
昭和四十六年、奈良県生まれ。奈良県御所市議会議員(無所属)平成二十年初当選、現在三期目。
國語地方議員聯盟幹事長、不二歌道会奈良県支部長、「明治の日」推進協議会実行委員、創造文化研究所客員研究員、新しい歴史教科書をつくる会奈良県支部幹事など様々な活動に参加。著書に『御歴代天皇の詔勅謹解』(展転社刊)。『不二』『国体文化』『伝統と革新』『國の支え』を始め各紙誌に寄稿多数あり。主な論稿は『昭和天皇の「みことのり」を拝して』『西光万吉の尊皇思想』『歴代皇居探訪誌』『古代天皇の御跡を慕う』『汨羅の淵の波騒ぎ~昭和維新運動論』など。